小値賀島内に古くから伝わっていた習慣・風習・行事・お祭り等が時代の変遷で廃れたり、忘れらつつありますが、,昭和27年に梶野先生が発刊された{小値賀」・昭和40年に史談会が発刊した「龍灯」・昭和53年に小値賀町が発刊した「郷土誌」等を参考に島内の古老等の話し等を聴いて纏めてみました。
    
昭和20年代後半から30年代にかけて三回、五島を訪れた民俗学者の宮本常一先生は著書『私の日本地図・五島列島・小値賀島』の中で
こう述べられている。

「いっぽうでは多くの古いことをのこしつつ、他方では新しくならざるを得ないをものを持っている。また新しくなろうにも新しくなりきれないものを持っている。自分で自分を守るためには古いシステムの方がしっかりしているからである。そしてその古いものよって島が島として今日までいきつづけたのかもわからない」
     

     

                         元 旦 

戸毎に松・竹・椎葉など門に立て(門松)、砂をまき戸口の上には年縄を飾り、元旦から三日間は国旗を掲揚する。
尚、日頃使用していた、農具は上り口の間に飾り、
(かめ)・臼等と共には注連縄(
しめなわ)が張られる。
井戸には、小餅ともち米一つまみを白紙に包み、お年玉として投げ入れる。

  
 お潮負桶
旦には主人はその年の干支の方角を正面として井戸から「若水」を汲む。
又、海岸近くの家では、「お潮負桶(
おしおいたご)」を持ちまだ明けきらぬ
東の空に柏手を打って海面を押分け
『萬津の宝、われぞ、汲み取
独語しながらお潮(海水)を汲み、それを笹の葉につけ、家の内外に振り掛けて清める

                                 (龍灯より)
このお潮汲みは浦方(漁師方)では日課として「御潮桶」を携え波止場に行き、清き潮を汲み神社に手向け清め祭ると共に幸運を祈ったそうである

今から約半世紀前頃の我家の正月を迎える風景を懐古して見ると、どこの家でもそうであったが餅搗きが年末の最大イベントであった。
12月26・27日頃、餅つき当日の早朝、親類のおばさん達が我が家に集まり、土間(玄関)に続く部屋に戸板を広げ、その上に白い餅取り粉をまく、勝手口の庭では備へ付けの大竃でもち米を蒸し,其れを土間で我が家に先祖代々伝わるの石臼(当時の当主の名前入りの刻印)を用意して待機している部落の手伝いの若衆が4人位でお互い掛け声を合せ、杵で交代で搗き、おばさん達に素早く渡す、其れを手際よく鏡モチや小モチ、カキモ用等にひねり出していくのである。中でも餡モチは格別である。
その為に親類の子供達も早朝から、何時おばさん達の魔法の手から餡モチが生れ出るのか今か今かと待っいたのである。
あの時の餡モチは格別美味かったナア−。この餅つきは年末まで日を変えて親類を回るので毎朝餡モチが食べられて楽しい年末だった。

28日ごろには門口から玄関の前まで撒く「お清め砂」をリヤカ−で海岸まで取りに行にくのが恒例であった。砂なら何処のでも良いわけでなく採取する場所は決まっていた。その砂は他の砂と違い粒が大きく色白であった。

父は竹や松で門松を造り玄関の両脇に立て、注連縄も自前で作って飾りつけをした。床の間の掛軸は朝日・、松・鶴・亀が描かれた縁起物に替えられた。

鏡餅は自宅の床の間、仏壇に飾り、土間の上がり口の部屋には2個の三宝に一個は鏡餅を飾り、もう一には米を一升程山盛し、その上に葉付きの小みかんをおいたて後方には仕切りとして屏風が立てられた。

鏡モチは菩提寺、母の実家、兄嫁の実家にも持参して仏壇にお供へした。

大晦日の夜は母はお節料理の準備、父は屠蘇の用意や、スルメ、昆布を短冊状に切って新年の歳を取る準備をする。
私は姉は親子ラジオの紅白歌合戦を聞きながら明日着る真新しい下着や洋服を何度も試着していた。

この頃はどこの家もそうであったが新調は正月か盆にしか出来ず。普段着は洗い晒しの伏せたくり、兄弟親類の使い回しの御下がりであった。少々袖が長くてカミシモ見たいに、手も足が見へなくてもなんのその、毎日着ている間にツンツルテンとなり誰かに下取りに出し、又母が親類を回って御下がりを旧調してくる。

胸元にイニシャル入り頭文字の手編みのセ−タの名前が自分のイニシャルでなくても着れるだけでうれしい時代であった。
正月の新調の服は三箇日までで、後は親類の慶弔、お祭りの時等の儀式用礼服のイッチョラとなる。

元旦の朝は日の出前に歳を取るので六時頃には家族で神棚、仏壇、座敷の鴨居に飾ってある額入りの「天皇陛下家族」の写真に手を合せ着座する、母の隣には七輪で雑煮用の餅が焼かれている。

父が屠蘇を朱漆塗りの杯に注ぎ、スルメと昆布の短冊を歳取り用の割り箸で渡し。それを雑煮の中に入れ一年の健康と幸福を祈願して一同で「おめでとうございます」云って歳をとる。
そこには東京から帰っていない兄の陰膳も用意されていた。

歳を取る行事が終る頃には夜明けとなるので玄関に国旗を掲揚して全員で神島神社に初詣に出かける。
最初は地の神社に参拝してから野崎の(沖の)神島神社の遙拝所から御山に参拝する。

それが終ると登校して校庭で校長先生の訓話と「年の初め」を大声で歌い下校の後これも又子供の正月の大イベント、親類へ新年の挨拶へ回る。普段は拝むことのない仏壇に神妙に手を合わせてお年玉の増額を願う
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       幸木
の土間の壁には幸木(サワギ)つるし
それに野菜・するめ・塩魚などをいっぱい下げる

下げ尾は普通の年には一二、閏年には一三
幸木はその家に不幸があった時は新しく部落から貰う(龍灯より)

 幸木は食料品が少なく冷蔵庫がなかった時代、
食べ物に感謝する気持ちと、正月用保存食をそれに
吊るして日もちさせて大事に食していたのだろう。
又、ねずみ、猫などの動物被害からも吊るすことで防ぐことができた。
正月十四・十五頃にはかたづけていた。
昭和三〇年の始め頃まで我が家でも吊るしていたようだ。
田舎の古い家では今でもインテリアとしてそのままにしている処もある。。

                
           【綱打ち(綱引き)  正月二日】

部落の若い衆が藁を持ち寄り、共同で大きな綱を打つ(なう)。ときには、他部落の
「綱打ち」の邪魔に出掛けて追いつ、追われつ、の賑やかな光景も正月の楽しい風物詩
の一であった。綱ができ上れば、部落中央の道路で綱引きが始まる。
正月が済めば夜も集まって引いて遊んだ。
綱は縁起物として、酒屋や旦那の家に運ばれ酒代や餅を貰った

子供たちが登校しないでこの行事に参加して餅等をねだるので教育上問題があり
大正時代には、殆んどの部落で行事を廃止したそうだが納島の部落だけが
昭和六十年代まで部落全員東西に分かれて綱引きをしていた。(龍灯より)


 
    
            門札書き(かどふだ)  正月三日
     部落の境の門札
落の総代宅で、木札(5p×30p)に〈天盤戸家門平安守幸給〉と書き神官のお祓いを受けてこれを各戸にくばる。
家では門口の側に立てて魔よけとする。
又、部落堺には注連縄を張りこの木札を立てる。
現在も部落によって続けられているところもある。これは自分たちの家・郷・
村に悪魔や病気などが侵入しないように祭文書きその境に立て ったのだろう。
祭文を立てる場所によって文面も違うようだ。
北松浦の福島町でも、木札に書く祭文は違うが同様なことが行われている。
 (龍灯より)









                  

              鬼の目  正月七日
の松飾りなど取除き、それに青竹を加えて門前で燃やす。竹の爆発する度に、
『鬼の目』と声高に叫ぶ。子供はこの火にあたれば其の
年風邪をひかないと
いわれていた。大正時代まで残っていた。


これに似た行事は全国どこでもあるようだ。
よくテレビで見かける「どんと焼き」は小正月(1月15日)の行事で正月の松飾りや注連縄を広場に持ち寄り、一箇所に積み上げ燃やしその火で、餅や団子を食べて無病息災、五穀豊穣を祈る行事である。
「鬼の目」と叫んだとあるが、鬼とはもと冬の寒気、疫病で、人に災いもたらすと云われていたので
声高に叫んで鬼を追い払う行事だったのだろう。今の2月3日の節分の「鬼は外」と同様意味の行事だったのだろう。
(龍灯より)
           

     【悪魔払い  的入り   正月十一日

    旧カメヤ前から農協方向
笛吹の漁民地区の行事で笛吹本通りタ−トル喫茶店前(旧カメヤ書店)から農協付近の海岸に設けられた的に向かって矢を放って悪魔を退散させ家内安全を祈ったと伝えられる。


 







                

       


        田の神祭り 正月十四日

正月十四日、藁一握りを束ね穂先を「十五日粥」に浸し、籾殻を着けて貯え、
五月に田植えが終わってから、矢柄竹十二本を添えて田の中に立て豊作を祈願する。

(龍灯より)
  江戸時代、小値賀は平戸藩だったので平戸をはじめ旧平戸藩内(北松浦郡)の
  各町村では似たような行事がおこなわれていたようだ。

     

   
          

         
土竜(もぐら)打ち 正月十四日 

子供たちが、長さ一b位の竹竿の先に藁束をくくりつけて、五・六人組になって
家々を回り、庭先の土を「パタン パタン」と打ちながら 
 『十四日のモグラ打ち ここん家ん 繁昌するように モグラ打ち
餅は米ん餅 太かつば、 餅ばくるる母は 卵ごつある子ばもて』
 と餅を貰いに歩く。
餅を貰はない時は
 『餅ばくれぬ かかあは 犬の子をもて 蛇もて 鬼のような子をもて』
 
と悪口を言う(龍灯より)


このモグラ打ちは特に九州各地で行われ、テレビでもその様子が時々放映されている伝統行事です。モグラの害を防ぐ為に正月の注連縄や門松に立てた竹の先に藁を丸めた棒で14日の夕方から各家の門や庭から入り文句言いながら地べたを叩き、餅とかミカン、小銭等をもらい歩く子供達の正月の遊びであるがこれ網打ち同様に教育上良くないと止まったのであろう。
もぐら打ち」の子供達の文句

江戸期:「もぐら打ちゃ科(とが)なしぼうの目ぼうの目祝うて三度しゃんしゃんのしゃん」
明治期:「十四日のもぐら打ちゃとがなとがなぼうのめぼうのめ福の神ゃへぇってこい貧乏神ゃ出てうせろ祝うて三度おしゃしゃんのしゃん」
何ももらえないときは、「ここのおかちゃぁん(奥さん)はしまつぼうしまつぼうしまつぼうのかたにゃ鬼子もて子持て角のはいた孫もて」
大正期:「十四日のもぐら打ちゃと〜がいないと〜がいな(科(とが)なしのひどいなまり)餅ゃよごでも(ゆがんで、かっこうが悪くても)ふとかとば銭ゃこまかっても光っとっとば」
田畑を荒らす土竜の害を除くための小正月の予祝行事。祝い歌を唱えながら竹ざおや槌を地面に打ち付ける。祝い歌や方法は地方によって異なる
(長崎風俗考)
私は、今までにモグラを見たことが無い、又、この島でモグラが野菜等の農産物を食べ荒らして被害を被ったと 言う話を農家の人から聞いたこともありません。

しかし、古老の話では明治・大正時代に少しは生息していたそうだが小値賀は火山による粘り気の赤土のため柔らか  い土を好むモグラには住み心地が悪く、被害を受けるほど繁殖していなかったらしい。


小値賀島には、モグラや鼠の天敵であるイタチが昔から生息していて、明治、大正時代 その毛皮が高く売れたので、箱罠を作りイタチの通り道に仕掛けて「イタチの最後屁」に鼻を曲げながら捕獲して生計の足しにしていたそうだ。

其の為か昭和の初めには激減して鼠の被害に度々合うので、町でイタチをわざわざ買って島に放したそうである。それが繁殖して今では良くイタチを見かけます。
  
         


         【花散らし  三月四日】
         弁当を持って野や磯に遊び、一日を楽しく過ごす

 
これも各部落の親睦を兼ねたレクレ−ションだったのだろう。今でも日日はその時により違うか各部落総出の親睦の宴が開かれている。(龍灯より)
     「花ちらし」のことをネットで調べてたら興味深いことが載っておりました。

   「花散らし」 の艶っぽい元々の意味

気象予報士の森田正光さんが、「花散らし」 の元々の意味というのを力説していた。最近でこそ 「花散らしの雨」 とか 「花散らしの風」 とか言うが、本来は別の意味なのだと。

広辞苑には、「3月 3日を花見とし、翌日若い男女が集会して飲食すること」 という語義しか載っていないそうだ。

日本古来の言葉だから、「3月 3日」 というのは、もちろん旧暦のお話である。今年の旧暦 3月 3日は、新暦でいえば 3月 31日だった。「花散らし」 は西日本、とくに北九州で盛んな行事だったというから、確かに、桜の咲く頃だ。

なんだ、元々は 「花見の宴会」 のことだったのかと、単純に考えてはまずい。ここで少しも疑問に思わないというのは、あまりにもフォークロア的なアンテナが鈍すぎる。

3月 3日に花見をする。それはそれでいい。しかし、翌日に改めて飲食をするというのである。現代の花見は、「花見」 と 「飲食」 をワンセットで行うのだが、「花散らし」 という行事においては、この二つを別々に行ったのである。問題はそこにある。

初日に 「オフィシャル」 な花見をする。そして、翌日に 「なおらい」 的に飲食をともにする。そして、その間には夜がある。この行事に参加した若い男女は、その夜、家に帰ったのだろうか。

結論から言おう。帰るわけがないではないか。帰って出直すのなら、2日間にも渡るイベントを行う意味がない。帰らなかったのである。帰らなければ、何があったのか。そりゃ、決まりきっている。

多分、そこには歌垣的な光景が繰り広げられたのだろうと、私は考える。集団的な求愛の場になったのだろう。現代の合コン以上の盛り上がりだったと思われる。

なるほど、「花散らし」 とはよくぞ言ったものである。日本語は、よくよく奥が深いのである。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

                 
 
           【牛の塔祭り
  四月三日】


             牛の塔祭り

牛の塔祭りは船瀬にある牛の塔の祭りである。
その昔、小値賀島が二島に分かれていたのを平戸松浦第十五代肥前守定公がこの海峡を埋め立て造田工事を行った。

その時、多数の使役牛が犠牲となったのでこれを悼んで工事が竣工した建武元年(1334)九月に一字一石経を(小石一個に経文の一字を書いたもの)6万個を船瀬の浜に埋納し、その上に供養塔を建立して祀った。
其れから六〇〇年間この祭りは絶えることなく九月に
行われていたが、明治より大正に至り之を世話する人が次第に減り経費の出所ににも困っていたが牛市場開設と同時に四月三日に変更して育成牛の品評会、共進会も兼ねて今も続けられている。


             

          【金毘羅祭り
  四月十日】


    愛宕山に祀られている金毘羅宮
箱に、ご馳走を積め、老若男女一家総出で山に登り、
大人の男性は、各部落ごと総代を中心に若草の上で
円座を組み、酒を酌み交わして締め太鼓の音も高々に
『よいやさ!』などの豊作の上げ歌を歌い親睦を深める。
子供たちは、出店で風船や飴玉等買い新緑の草ス―キや
相撲に興じて楽しい一日を過ごす。
(龍灯より)
各部落毎にあるの小高い山の頂上に三方を石囲いしてそこに金毘羅宮を
石祠で祀り年に1度祭礼を行う
その後各部落に毎に円座組んで祝宴を行う。
       
                  

             宮地獄祭り  四月二十二日】
       各部落に分かれての宴
 城岳に登り金毘羅祭りと同様の行事をするが最も賑う
(龍灯より)

 ※ 今は山へ登る人も少なくなり往時の賑ぎ
   やかさはないが行事は続いている。


  宮地獄岳(本城岳)



                

              【端午節句  五月五日

かや」と「よもぎ」を軒先に挿して魔よけとする。
又、この日に風呂湯に菖蒲を入れ、或いは、これで鉢巻して仕事をする。
尚、この日は「だん竹」の葉で米を三角に包み粽(
ちまき)を作って神仏に供える

端午の節句に昔から軒先に菖蒲とよもぎを吊るす風習は全国であるようです。
菖蒲は葉先が尖って形が剣ににて邪気を祓うとされ、菖蒲が「尚武」(武を尊ぶ)に通じる事から武士の時代になって端午の節句に使われるようになったとも言われている。いまでも子供の日には菖蒲湯に入り、菖蒲の葉で子供の頭を巻き健康と成長を祈る。

よもぎはこれも又葉の香りが邪気を払うとされ軒先に吊るし、中国では漢方薬として昔から胃腸、循環器、アレルギ−疾患に良いとされいたのでこれも又風呂に入れて使われた。

端午の節句で柏餅や粽(茅巻)を食べるのは柏の葉は新芽が出てこないと古い葉が落ちないことから子孫繁栄の意味だそうだ、粽は中国の故事に倣って食べるが、粽は古く茅(ちがや)の葉で巻いたからこの名がついたが今では笹や真菰の葉で巻くが小値賀では「だん竹」の葉が沢山あるのでそれで巻いたのであろう。



              

           【祇園様  六月十五日】
         宇久島厄神様参り
部落ごとに、船を仕立てて隣の宇久町、宮の首の
「厄神様」へ参詣する。


何時頃迄、隣の宇久町(現在佐世保市)の「厄神様」に参詣していたのか定かでないがが昭和の20年代にはこの参詣は廃れてなかったようだ。
私は一度だけ父や親類と我家の発動機船で参詣した記憶があるがそ父が昔の「厄神様」詣りを思い出しての参詣のようだった。

現在、厄神様まで参詣する人はいないが、笛吹八坂神社でも毎年七月十五日に祇園祭が行われ宵の祭りでは子供連れで 賑やかだ。
            


          【虫追い  七月】

春夏の候、作物の害虫蔓延する時、之の駆除を行う行事。
部落民が藁で三尺余りの船を作り、「南無阿弥陀仏」の旛を立てて、前後を
担いで僧侶を先頭に行列を作り、鐘を鳴らし、南無阿弥陀仏の念仏を唱え
ながら畑や農道をめぐり歩き、最後は虫、二・三匹を船に乗せて海に流す(龍灯より)


虫追い祭りは江戸時代より、明治、大正を経て昭和まで途絶えることのないの五穀豊穣、虫退治、悪魔よけ祈願として農村の最大年中行事である。
 島内の農家部落でも、虫追い行事は一代イベントであったのだろう。
 現在も田植後の苗に害虫がよく発生するので農家総出で駆除を一斉何回もに行なっている。

 戦前は現在のような農薬は無く害虫駆除には植物油・石油・ サメの油を使用していたそうだが
 効果はあったそうだ。
 戦後、ホリド―ル・DDT、などの、化学農薬がアメリカら入って来て初めは速攻性があり良く効いいたそうだが
 だんだん害虫も抵抗力が強くなり効かなくなってくるので、より強な力な農薬で駆除しなければならなくなったそうで ある。

 御蔭で田圃のメダカの学校は子供達がいなくなり廃校なった。、ドジョウも、ぼっちゃんと一緒遊ばなくなりました。
 
 害虫の種類によっては鉦の音に反応する虫もいたので村中の鉦を集めて 一斉にたたいて駆除したこともあったそう だ、六島では子供たちがこの虫追い行事を受け継いで
最近まで行われていたが現在は子供がおらず廃れてしまった。

        
           盆  七月一三日】
        長寿寺境内
田舎では七月十三日に、念仏同業が大師匠(大師匠は部落で一人外に副一人)のもとにある三界万霊等の前で念仏を唱えた後、幾組かに分かれて、各戸を廻って、仏前に念仏を唱える。

各家で精進の馳走をして待つ。又、藩政時代には経崎山の定公のお墓には必ずこの念仏の主なる人が集まり念仏を上げる事に成っていた。

(龍灯より)

           源定公墓所      
現在も島内では、代々部落の青年団に受け継がれて葬式・初盆の時等に仏壇や墓の前で数人が鉦を叩き念仏を唱えている部落もある。











                    

           【 地蔵流し  七月一四日】

海上に於いて遭難死亡した霊魂供養の為僧侶船中より読経しつつ地蔵尊像経文を刷った紙片を海中に流すと海上の精霊これを受けて成仏すると言う行事 



         

 【徒歩(かち)参り(千日参り)  盆の七月八日(九日)】

脚絆に草鞋を履き、青竹の杖を持ち(家族で参らない者がある時は其の分の杖も持つ)
未明に家を出て七ケ寺をめぐる。杖は部落の供養様い納める。 (龍灯より)     

現在も有志の老人が徒参りしているようです。使用した杖は寺の境内の、お地蔵の前に置かれている。

写真は現在の七ヶ寺









 


      浄善寺    笛吹                    阿弥陀寺  笛吹       



  延命寺   笛吹                   明覚寺  浜津











    善福寺   柳                  長寿寺   前方             福善寺  前方