【藪入り (寺参り)七月十六日】

俗に「十六日参り」といって、老若男女が菩提寺はもとより、縁故の寺へつれだってのお参り。特に盆帰りの娘(『博多下り』『佐世保下り』と言った)で寺は大変な賑わいだった。(この時、嫁の見立てがなされていた)(龍灯より)

正月の16日、盆の16日は地獄の釜の底まで開くと昔から云ってお寺に参れば地獄極楽の掛軸が掲げられ勧善懲悪の教訓を示されていた。而して今日は一日仏より罪を免される赦日としてお寺参りをした。
 梶野貫三著 昭和二七年発刊 「おぢか」より

今でもお寺の本堂には地獄極楽の掛軸を掲げられている


              長寿寺本堂

        
       

 沖神島神社例祭 (お山まいり)】 
  野
   沖神嶋神社
九月二日から十八日沖の神島宮(野崎島)の大祭で、部落ごと、くじで参拝日を決め、座船を仕立てて参拝し豊作大漁の祈願をする。
参拝帰りにはよく船漕競争が行われた。
特に柳の東西両郷の船漕競争は年中行事の一つで、参詣する船を個人所有のを借り受けて、東部と西部に分け、船主が自分の好む漕手を選出して船漕競争をした。

野崎に参詣しない人は村全員志々岐神社に参拝し、船の帰る時刻には浜に出迎えて陸からの応援で大変な賑わいだった。勝った船は勢よく『ハイヤヒョウ ハララ ハララ』と掛声勇ましく浜を一回転も二回転も漕ぎ廻った。夜は祭宿で祝宴を催した。       
((龍灯より)


  何時の頃からか判らないが参詣日は、クジでなく部落毎に、参詣日
  を決めて、現在もその通りに行われている。

   しかし、年々参拝者の減少と宮司の高齢化、野崎島住民の離村で
  世話する人がいなくなり神島神社の本宮まで登り祭事を行うのは
  困難となった為、この二十年程は麓の野崎の宮司の家で祭礼を
  していたが野崎島で最後の住民の宮司も、離島することとなり
  西暦七〇四年、地の神島神社の上宮を野崎に設けて以来千三百年の
  歴史がと由緒がある沖の神島神社が寂しく幕を閉じた。

  
神島神社遥拝所(六社神社境内
平成十四年四月に小値賀住民有志の寄付により笛吹六社神社境内の神島宮が見える場所に遥拝所を設け 六社神社の宮司が兼務で神事を引き継ぎ、各部落の関係者たちがその日の参拝日に遥拝所で行事を継続している

又、沖神島神社参詣道の途中に牛を祭った祠があるが天明三年
(一七八三年)に書いた「沖の神島神社年中行事」
によれば古来より牛馬願立ての為、八月九日
(旧暦)小値賀の村島から氏子が来て御神酒・餅・膳をお供えして神主と共に料理と酒で祭事をしていた。これが九月の御山参りの原形ではなかったのではないだろうか。


   

             

      【三夜様 (三夜待)正月3日・9月23日 】

月三日・九月二十三日の夜、家元を定めて数人相寄りいろんな御馳走をして月の出を待つ。月の出と同時に、五色の美しい着物を着た三夜様が、河船に乗って出てこられるのを拝む
親睦を兼ねた婦人の集いで今でも小値賀町の黒島、大島で行われている。

                                  

          秋 祭 り】
                   
旧三村(笛吹、前方、柳)の郷社祭り
祭りの日日は現在も変わらない
変わら旧
前方郷10月9日
笛吹郷10月12日から14日 
柳郷10月15日

その他地域によって地祭り・鎮守祭りが約1ヶ月間島内を巡る。

最も賑やかなのは笛吹地区のお祭りで六社神社の御上りの行列に山車や中学生の本踊り、各町内の踊り、各種の出し物等があり全島の人が見物に来て大変に賑やかである。
       笛吹六社神社大祭                 中学生による本踊















      

            【十五夜豆  中秋の名月】

 名月にロ‐ソク・仙香を上げ、豆を煮て供える。子供たちは、小籠や重箱を持って『一五夜豆をおくれ』と家々を廻る。マテ樫の実(椎の実)を煮て待っている家もある。(龍灯より)
 
昭和三十年頃までこの風習は残っていた。満月の明かりを頼りに、近所の遊び仲間達五六人でグル―プを作り弁当箱を持って各家を廻るのである。
戸口に立ち一斉に大声で『十五夜豆おくれ』と叫ぶと、奥から家人が出てきてこの日の為に準備していたキャラメル・お菓子・みかん・かんころ・豆・マテ樫の実等を子供達に小分けしてくれた

              

          
【 神渡し  十月二七日 】

十月二十七日の夜「産土大神御待受」は、クジで宿元、世話人二人を決め、家元にに集まり、神官を迎えて御馳走をして産土大神のお帰りを祝う。
現在大島で宮守が接待役となって行事が続いてる。

          
        

                    
【 誕生祝 】

月型・日型の餅を神に供えてから子供に踏ませる。尚、男子は算盤・筆・秤を、女は物指(尺竹)・白粉類を並べて、子供がどれを早く取るかで、そのこの将来を占う。(龍灯より)
日本全国どこでも同様の風習ですが当方では現在は廃れているようです

          
           
        兵児へご祝い

男子十五才になれば・親戚か、懇意の人からお祝いとして、扇一本・白紙一束フンドシ(五尺五寸)それに御樽を貰う。女子は腰巻を貰う。
そして、兵児親、兵児息子(娘)の親しい関係となる。兵児親が死んだ時は兵児息子は棺桶を贈る。(龍灯より)
現在は廃れている

        

     黒不浄(死人の時)】

人の湯灌をさせる時、近親の二人が縄たすきをし念仏の同業二人がその間、鉦を打つて念仏(おぐるま讃)を唱える。湯灌が終われば、小皿に豆と炭火とを入れ、その皿に石を打ちつけて、割って、床下へ投げ込む。
(炒り豆には、花は咲かない=再生しない。一種の引導であろう)湯灌の湯は床下に流す。(不浄のものを太陽に見せるのは恐れありと)(龍灯より)
現在は廃れている
  念仏は時、場所で唱える文句が異なる。

葬式直後の念仏 本字全部
待夜の念仏》  親の場合、本字と恩づくし  子の場合、本字と、          よね仏
盆の念仏》   本字
葬式の念仏》  家を出るときは六字、墓より百bばかり前から道行き

                       

        赤不浄(お産の時)】

お産をするのは大抵納戸で十四日間はその部屋から出るのを遠慮した。御飯も荒神様が嫌うというので、別釜である産産褥出さそで)お産の時の床上げ)」の時は神官のお祓いを受ける。お産の時の食事は三日間は粥一週間は主に海藻類の副産物、産後二十日間は油物を摂らなかつた。(龍灯より)

現在は廃れている
       

       千灯籠(せんとうろう)焚き 】

・八月、旱天 が続けば、三ケ村の農民が協議して千灯籠を焚き、雨乞いをした。夕方になれば、部落の子供が『千灯籠を焚き上がれ』と声高に叫び合いながら各自、
麦藁を持って岳(山)に登り三・四メ−トル間隔に置いて松明を分けて一斉に火をつける。パチパチと音をたて、勢いよく燃え上がる炎の中を松明かりを手に子供は先を争って駆け下る。後になって、狐火が点々と移行して雨雲を呼ぶと言う。
夏の夜空の千灯籠の遠望は美しく、なつかしい思い出である。(龍灯より)

現在は廃れている

        

  
   
 治安和楽(じゃんぐわら)

   
千灯籠を炊いても雨が降らない時は治安和楽を引いた(行った)。

この行事は雷神の舞踏を擬しているみたいだ。
藁で編んだ冠の上に、竹を立てて五色の飾りをなし、冠の周辺には赤白の布をめぐらして顔をかくし、胸には子太鼓をつるし、腰蓑を着け、両手に笹の葉を持った踊り手、七・八人と鉦打ち五・六人が一組になり、これに一戸一人が随行する。鉦打ちが声を合わせて『エ ホ−デ−イ ハイ ナムアミデ−』と繰り返しながら鉦を打ち、踊り手は円を描いて回る。

三度目に一声高く『コン コン カイカイ』と囃し立て踊り手はそれに合わせて、腰を振り、両方の笹を振って土を掃くようにして、胸の太鼓をならして『ヨイ ヨイ』と拍子をつけ塵埃(
じんあい)たてて、狂い舞うのである。

離島民は色とりどりの手拭いを長くつなぎ合わせて、これを長い竿につけて虹を描きつつ一団の先頭に立ち、三ケ村の各神社仏閣へ踊り奉納して歩く。恵みの雨が降れば、又御礼にこの行事を行う。(龍灯より)

戦後廃れて行われていないが、役場の若手が伝統芸能として受継ぎ、お祭りやイベント行事の時に披露することもある。


https://youtu.be/6rox2Mcig3A



  上五島念仏踊り                 福江市 チャンココ 県指定文化財


平戸市 ジャンガラ


写真 長崎県文化百選 祭り・行事編より

 元々、江戸時代の平戸藩・五島藩内の村々に伝わる念仏踊りで町村により呼名は違うが扮装(
いでたち)・踊りの動作などはよく似ていて現在もお盆等で踊っている地域もあり念仏芸能として長崎県の無形民俗文化財に指定された市町もある。


         

             【 阿瀬参り 】

    千灯籠も治安和楽も雨乞いに効果がなければ、最後には阿瀬祭りをした。

 阿瀬の龍宮がある海峡
 奥の六島と手前の野崎島の間

下新田の釈迦湖に御棚を設け、御供物をして、神官が三日間、雨乞いの祈願をた。この間、部落から出された人足は鉦を打ち鳴らした。結願の日は神官は高下駄に傘の扮装、従者は蓑笠を着込んで、船に乗り込み、野崎と六島との中間にある阿瀬へ御供物を納める。供物は海面で二・三回輪描きやがて海中の龍宮の門をくぐる。
こうすると、岐路には一天にわかにかき曇って大雨が降るという。



           

実際に行った雨乞いの様子が明治三十年、笛吹村役場日誌に書かれている。

☆ 明治三〇年七月二日 ☆
 
本日は連日降雨なきため、三村総代午前より役場へ集合し
雨乞の件に付き種々協議の末、遂に三村聨合し本村村社
六社宮前に於いて相撲興業するに決定し、而して
其の各村負担額は三村にて予算二十五円とし内十円を
笛吹浦部、五円 宛笛吹在部・前方・柳村の三村にて
割当各々寄付を募集するに決す。
    

☆ 七月三日 ☆

本日三村聨合雨乞いのため、人民は、諸神社参詣の後、
六社宮前庭にて相撲興行あり。

村長・収入役・書記は午前九時より前方村・柳村へ
諸神社へ参詣す。


☆ 七月一一日 ☆
雨乞いの件につき、三村各郷総代、柳村役場へ参集す

☆ 七月一二日 ☆
本日は、三村人民、雨乞願成就のため各村神社へ参詣あり、且つ又、
三村各郷総代は六社宮にて各神官と相談し、明一三日より、
橋の浜字逆川にて雨乞祈祷をやることに協議す


(左)橋の浜         (右)新田逆川










         ☆ 七月一三日☆

本日より橋の浜字逆川に於いて、三村社掌、雨乞い祈祷のため二夜三日の予定にて始まる。

        ☆ 七月一四日 ☆

本日は雨乞いのため三村、早朝より
ジャグワラの興業あり、
村長は午前六時橋の浜雨乞の場へ出張し午、
書紀と交代す。


当時の笛吹村役場


         









           ☆ 七月一五日 ☆

本日は、橋の浜逆川に於いて挙行中の三村社掌雨乞祈祷、結願につき村長
・収入役は午前十一時半より同所に至り、午後六時に帰庁す



    
☆ 七月一七日  阿瀬祭り ☆

本日は、阿瀬に於いて、本村浦部より、雨乞の祈祷施行有之。三村社掌及び本村長、同書記、近藤前方村書紀、柳村中書記等は午前十一時半、波止場に至りて、船に乗り込む而して、本日、阿瀬行きの船は浦方より五艘、新町三艘、前方筒井浦一艘、柳村・斑島一艘、合計十艘にて午後零判頃より祈祷あり、且つ又青藁を浮かべて焚き、且つ同所にて海水かけの争あり又波止場にても海水かけの競争あり。帰庁せしは午後三時半なりき。其れより浦部より三村各総代へ、御神酒及び肴の寄贈あり。(柳村長外、諸氏へ酒肴の饗)総代よりも酒の寄贈ありて充分歡を尽くし、一同、退場せしは午後六時半なりき因て本日は朝来より曇天且つ南風激烈なり

     ☆ 七月一八日 ☆

収入役は、午前七時より前方、柳の両村社へ雨乞のため参詣す

     ☆ 七月一九日 ☆

本日午前七時、村長。書紀、雨乞祈祷中につき六社宮へ参詣す

     ☆ 七月二〇日 ☆
昨夜降雨あり。三村長・助役・書紀は三村社廻礼す。



当時の三村郷社
   前方 神島神社             笛吹 六社神社          











 
柳 志々神社