名 称  安 香 真 譽 墓 碑  
 年 代 元禄4年(1691年) 
 建立者  
 所在地 前方キョン坂墓地 

この墓碑は前方後目から福善寺の前を左折れし木場方向に進むと直ぐに左手にこんもりと雑草が生い茂った丘に通称「キョンタケの墓」と呼ばれて墓所に立っている墓石の一つです。この墓所は前方、近藤一族や地の神島神社の宮司が代々眠る由緒ある墓所だっが今は雑草の中に墓棹も数本立っているだけで本家近藤家も宮司家も他所に移転してしまって過疎化の波はこの墓地まで押し寄せている。この墓所の奥まった所に他の墓石と形も材質も違った赤御影石で加工され墓石が一基だけ立っている。

碑銘の上に梵字三文字が彫られている。中央は阿弥陀如来、右側は観世音菩薩、左側は姿勢菩薩である。碑面の字は320年経った今でもも風化せず読み取りことができる。
この墓碑銘の人物がいかなる人であったか口碑も伝説も残ってなく、近所の古老やこの墓地の関係者に尋ねても誰の墓なのか判らなかったがこの墓石の戒名の最後に「譽庵」と彫られているのでおそらく浄土宗の資産家の墓地であったのではないかと判断する。

普通は没年月日の上か下に干支の辛未(元禄4年)が刻印されているがこれには刻まれてないのが不思議である
テキスト ボックス:           元 禄 四 年
    
             為 安 香 真  譽 庵
 
六月九日

























 名 称 供養塔 
 年 代 元禄13年(1700年) 
 建立者  
 所在地 前方牛渡キョン坂墓地入口 
この供養塔はキョン坂墓地近くの県道沿いに建つている御影石の石碑であるが誰が人里離れた山の中に一基だけぽつんと建立いたのか分らない。
近くには小さな西国三十三箇所の石仏が二体あるのでもしかしたらその昔墓地であったのが道路拡張や畑の開墾んで移動してこの碑だけが残ったのかもしれないがキョン坂墓地に抜けるこの界隈は昔から薄気味悪く曰く因縁のの場所でもある。

テキスト ボックス:   
元 禄 十 三 庚 辰 年
    南 無 観 音 菩 薩




















 名 称   鯨(くじら)供養塔(くようとう) 
 年 代  元禄八年(1695年)
 建立者 小田傳次兵衛門重憲
 所在地
この供養塔は向かいあって立つている三界萬霊塔と共に小渕の小田家墓地内に、初代以後歴代の墓の入り口祀られている
供養塔の建立の経緯には次のような伝説がある。

『ある夜、伝兵衛の夢枕に三十三尋もある巨鯨が現われ、わたしは明朝、上方詣りのため、この沖を通ります。お願いでございます、お見逃し下さいませ。そのかわり帰りにはきっと同じ場所を通りますのでその時は獲われましょう、という。伝兵衛は朝を待ち、急いで舟子に知らせようとしたが、既におそく鯨は捕らえられ、さばかれていた。』これを哀れみ供養塔を建てたという。

この鯨供養塔建立の伝説は日本全国鯨組経営をしていた処では良く聞く話しですが小田家が代々信心深かったのは間違いなようです。

供養塔の建立年月日元禄八の下の□□は干支の「乙亥」年と彫られていたであろう。

テキスト ボックス: 元禄八□□年

   為 鯨 鯢 菩 提  

二月十五日




















三界萬霊等

小田家歴代の墓
手前に供養塔がある


 名 称   一千日(いっせんにち)念仏(ねんぶつ)供養塔(くようとう)   
 年 代  寶永7年(1710年)
 建立者  小田傳次兵衛門重利
 所在地 笛吹阿弥陀時境内 
小田傳次兵衛門重利が阿弥陀寺に境内に自家の私堂として正徳6年(1716)に建立した現存する五島列島最古の建造物である。万日堂の脇に建つている。
小田家(現小値賀民俗資料館)の偉業の功績は今でも島内をはじめ平戸藩内での新田開発、道路、港の修復工事、そして又遠くは和歌山県の高野街道の道路修復工事等々語り継がれているが代々信仰心も厚く各所の神社仏閣に数多くの鳥居や仏塔等寄進したり修復をしたりしている。
小田家重利代の日記「重利一世年代記」によると
寶永五年(1708)正月七日に阿弥陀寺薬師堂に於いて導師、七世喚蓮社遺誉上人により千日念仏を開闢した。寶永七年(1710年)九月朔日より七日まで薬師堂で念一千日惣廻向した。島中の島民が集まり瑞岩黙堂禅師銘の一千日念仏供養石塔を建立し導師、七世喚蓮社遺誉上人により開元法要を盛大に行ったと記されいる。
その後も廻向は続けられ享保6年(1721年)9月23日より25日まで5千日大法会を行い島民に餅が配られている。

寶永4年(1707)正月七日に父重憲が亡くなっているのでその一回忌にあたり開闢したのであろう。
下写真、朱塗りのお寺が万日堂(県指定文化財)




万日堂(県文化財指定)




 名 称 (かさ)塔婆(とうば)    
 年 代 15~16世紀 
 建立者  
 所在地 中村郷 


中村の船瀬に行く三叉路の角に扁平な立石の上にもう一っの石を笠のようにかぶせたみょうちくりんな石塔がある。子供の頃、通学の行き戻り毎日出会った石塔で扁平の石の表面には「へのへのもへの」と書かれているように見える窪みがあるので子供等からは「へのへのもへの石」と呼ばれ親しまれていた。時には顔に落書きもされていた。
この窪みは阿弥陀三尊仏の梵字を刻んであるらしいが風化が激しくよくわからない。その下にも複数の梵字が刻んであるらしい
恐らく室町時代の15世の頃思われる阿弥陀三尊仏板碑である。地元では「くよう様」と呼ばれて昭和四六年頃道路拡張工事で後に移されたが移動の時櫛と鏡が出てきたそうである。

右側の写真は同じ中村郷にある笠塔婆ですが地元では「歯痛み石碑」として崇められている。
古い昔のこと、中村に移住していた旅人が歯痛みのため死亡した。家族親兄弟も親族もない一人者のこととて、村人達寄り集まって葬式をしてやったが、野辺送りの途中、棺桶が棺台からはずれ落ち、道の途中動かなくなった。墓地に運ぶことが出来ないので仕方なく道傍に埋め石碑を立てて供養した。この石碑は何時とはなしに、お詣りして祈願すれば歯痛み止めの後利益があると云われるようになり、歯痛み止めの石碑と云われるようになった。

テキスト ボックス:



















歯痛み石碑



 名 称  

(みょう)典塔(でんとう)(通称亀墓)

 年 代 正徳3年(1713年) 
 建立者  小田傳次兵衛門重利
 所在地 前方郷木場経崎山 
長寿寺の寺領木場経崎山の中程に亀石の台座に乗った一基石塔がある。高さ約二、四mの六画柱に碑文が刻まれている
この供養塔に関して昭和40年1月当時の小値賀史談会が発掘調査して同年3月の小値賀新聞にその概要を掲載しているので概略を載せます。

『一月下旬、史談会は小田家の了解を受けて調査した。亀石の下には一メートル四方の石室があってその中に浜の大小の小石がいっぱいつめられ、しかもその一つ一つに大きい方には表裏に経文が丁寧に書かれてあった。これが二百五十年前に書いたものとは思われないほど、墨色のあざやかなのに一同は感嘆した。』

小田家の記録「重利一世代記」によると重利が、正徳三癸已年(一七一三年)建立した。「長寿寺沢玄師石経之法華一部書写納経崎山供養塔寄附之普門品陀羅品自助筆而納之」とある。

これを寄進したのは父小田傳兵衛門重憲(法名雲院心誉道金) 宝永四年(1707年)に亡くなっておりその13回忌の追善供養の為建立したのであろう

テキスト ボックス: 大乗妙典石経一部                     (正面)
層々落々 海墨山筆 宇々行々 諸龍垣鎮 (右面)
地福天祥 生公臺畔 斯石放光
正徳三年癸巳歳四月佛生日
肥前平戸領小値賀長寿寺禅寺住寺澤玄叟
書□ 澤玄恵藩 近藤忠正 近藤良玄
   聡錐祖旭 木村正長 小田了性
化縁 心誉道金居士 小田傳次兵衛
     願誉妙本大姉 為二親菩薩造立焉




















 名 称

三界(さんがい)(ばん)(れい)(とう) 

 年 代 正徳 4年(1714年)
 建立者  
 所在地 前方郷木場長寿寺境内 
三界とは私たちが生まれかわり死にかわりするこの世界のことであり、萬霊とはありとあらゆる精霊のことだそうですので、三界萬霊等はこの世のありとあらゆる精霊を合祀した石碑のことだそうです。
町内でもお寺の境内やお墓の入り口でよく見かける石塔です。

左側の霊等は前方木場長寿寺の山門の左側に立っている。揮毫は臨済宗の高僧「盤珪和尚」と言い伝えがありますが元禄6年(1693)に71歳で亡くなっているので真意の程は分りません。
昭和42年に台風で途中が折れて修復をしている。

右側の霊等は前方後目の万福寺跡の境内に立っている。享保15年(1730)に建立されているが道路拡張工事で後方に移され下部は地中に埋もれて「等」の字が見えない。



テキスト ボックス:    秀□□宗春居士 禅源遐□居士 清誉淨雲信士 長誉壽徳玄士
   萬室妙巖比丘尼 澤室智恩大姉 本然自源信士 功誉妙徳信女


   三  界  萬  霊  等
                          若人散乱心
                       入於塔廟中
            経曰        一稱南無佛
 正徳四甲牛七月盂蘭盆日           皆己成佛願


テキスト ボックス: 享保十五     天親僧囡座
 
  三 界 萬 霊

 三月初六日  施主 村中





















 名 称   近藤七左衛門尉の墓 
 年 代  寛延二年(1749)10月
 建立者  
 所在地 浜津前目墓地内 
昭和45年1月1日号小値賀新聞小値賀人伝より
『尉は元禄の頃(西暦1600年代)浜津の貧農の家に生まれたが生来学問を好み、少年時代志を立てて平戸に行き、武家屋敷に只奉公して勉学につとめたがあきたらず、意を決っして都(京都)に行き知恩院の小僧に入り、入道して根誉了善と称した。
いかなる伝で知恩院に住みついたかは判らないが、向学の精神は多分群を抜いたことであろう。
年を経てついには最高の位(執事?)にまで昇進したそうである。
其の頃、平戸藩主雄香公参勤交代で江戸下向の砌り京都に立ち寄られた。尉はこれを聞いて駕に乗り伴僧を随えて、宿舎に公のご機嫌伺いに参上した。曰く拙僧は知恩院に勤めている者ですが、生まれは平戸藩で小値賀島浜津の出身でございます。これを聞いた公は、我が藩から知恩院の高僧まで出世する者が出たかと大いに喜ばれ、何か望みがあればかなえて使わす、云って見よ。殿の有難い言葉を賜った。
そこで尉は、私は貧農の小倅でございますが若し士族を賜ることが出来ますならば殿様のお役に立とうございます。この願いは見事に聞き取られて士族に列せられ、近藤七左衛門尉と名乗り殿様守護職に任じられた。程なく知恩院を辞し(中略)帰郷して生家の地に門構えの武家屋敷を建てて住み、藩主の許可を得て道場をつくり子弟の教育に当たったが寛延2年10月に没した。』


又小値賀出身の漫画家「小田悦望」の著書「続小値賀物語」ではこんな話がある。

或る時平戸の殿様が智恩院に参詣した時皇族以外は下馬となっている玄関を堂々ち乗り込まれたて平戸公も当惑されているとこの高僧がその場に這い入り都合よく取計らったので平戸公も喜ばれ其れより浜津の高僧宅は門構え玄関付を平戸公より許され侍分の取扱を受けとなっている。』
テキスト ボックス:    米 運 院 根 譽 善 居 士
























この下お墓は同じ浜津後目墓地に祀られていた今から310年程前の古いお墓ですが墓石の形が綺麗で文字の刻印も深く解読し易いので載せました。

テキスト ボックス:   寶永元甲申

彼 岸 紹 雲 信 士 之 塔

      九月□二日





















 名 称 (いち)竿(かん)鳥居(とりい) 町指定文化財)
 年 代 寛政7年(1795) 
 建立者 平戸松浦家34当主松浦清公(静山) 
 所在地 長寿寺境内 

この鳥居は長寿寺山門の左側の弁天堂の前に立っている。本来は左右に立って一対ですが右側は破損して堂脇に横になっている。この鳥居はもともと大應庵弁天堂の前に建てられていたもので、大應庵が廃寺となり弁天堂が長寿寺に移転されたおりに、この一竿鳥居も共に移された。
この鳥居に関して松浦資料博物館所蔵「壺陽録」に『~興栄公は弁財天を信じたまひ小値賀前方村に宮居を御寄進御影石の一竿花門を建てさせられる古今珍しき鳥居なり~』と記されていることから、この鳥居は建立当初から笠木がなく貫だけの鳥居であったとされていて、これが「一竿鳥居」という名の由来でもある。、神仏混合時代の数少ない遺物である。
町文化財委員会の報告(昭和四三年)による資料からすると現在のこの鳥居は4代目となっている。
初代  1400年代      松浦家16世国司・興栄公寄進
二代  延宝八年(1680)  松浦家26世法印・鎮信公寄進
三代  宝永二年(1705)  松浦家30世雄香・棟公寄進
四代  寛政七年(1795)  松浦家34世静山・清公   
































 名 称  

鮑集所(ほうしゅうじょ)設立(せつりつ)記念(きねん)() 

 年 代  
 建立者  
 所在地  
郷土誌によると
獲りを本格的に始めたのは記録よると応永年間(1394年~1427年)又一説によれば享保三年(1718年)紀州熊野から海士を雇い入れたとある、又宝永年間(1704年~1711年)小田伝次兵衛が藩主松浦公の指示に依り当村漁民の収穫する鮑を買入れ長崎で清国人と貿易をしていたが正徳年間(1711年~716年)の内二.三年間清人のが渡来せず貿易が途絶えたので漁民大いに困窮を極め見るに忍びず、相当の代価を以て買入れ貯蔵をしていたが其の後、貿易が再開され高値で取引されて多額の利益を得たがこれを私利とせず先、藩に税金を納め残りの利益はすべて漁民に分け与えたので漁民は大いに助かったそうである。
その後座方制が設けられ海士は座方の支配下にあった。当時笛吹村の漁民部落は浦部と新町の二地区に分かれていて明治24年に浦部地区が私設鮑集所を施設し浦部海士の支配は、この鮑集所がする事となった。
一方新町は浦部の鮑集所に代わるべき機関として新町漁業団が鮑参集所を設置して、新町に属する海士の支配はこの機関で取仕切った。
















テキスト ボックス: 発起者
 梶野英盛
 枡屋六左衛
 松屋紋十郎
 大黒市五郎
 大黒岩次郎
 平野平吉
 小倉龍太郎
 貝屋松三郎
塩屋為八
松屋由太郎
大浦善三郎
平野恵太郎
塩屋市太郎




テキスト ボックス:   中山筒井浦方波止新築
  明治三十一戌年落成
  村役     世話人
   前川武作   川口半四郎
   辻三郎平   三浦清吉
  浦役      前田定七
   博多鉄三郎  吉永太在
   藤松宇作   筒井松造
   博多甚二郎  博多十太郎
          博多孝太郎


 名 称   前方尋常小学校校門 
 年 代 大正6年7月24日 
 建立者  苑原正之
 所在地 前方相津現前方婦人の家 

小値賀町が三村合併する大正15年までは三村(笛吹・前方・柳)にそれぞれ学校や離島に分教校が有ったが合併以後は各村の学校を統合し校名を「小値賀尋常高等小学校」と改称し現在の中村免に新校舎ができる昭和3年4月まで各々の旧学校を仮校舎として授業を続けた。
統合後笛吹校舎は小値賀村合併後の役場となり前方校舎は前方郷民の集会所や保育所として使用された後昭和50年代に取り壊して「前方婦人の家」が建設されたが校門や石段は其の儘に遺され、小値賀本島で開校から残る唯一の校門です。

寄付者、苑原正之氏は前方村の初代村長で明治22年6月から明治25年の11月23まで勤めたが病気の為退任し大正5年5月に再度村長となったが大正6年4月17日に病気の為に退任しているのでこの村長歴任を記念して退任後同年の7月に寄附したのであろう。

テキスト ボックス:      大正六年七月二十四日建立
             寄附者苑原正之



























 名 称  野崎・野首分教校校門  
 年 代 大正11年(1922) 
 建立者 野崎・野首青年団 
 所在地 野崎 
昭和35年まで小値賀町野崎島には小値賀小学校野崎分校・船森分校・小値賀中学校野崎分校があったが昭和35年4月に三校を統合して野首に野崎小学校・野崎中学校新設して独立校となったのでそれまで使用していた野崎分校は教員住宅となり鉄筋コンク-トの住宅となったが校門は其の儘遺っています。
この校門は明治8年に前方相津小学校の野崎分教を開校してら48年を記念して青年団が寄贈した校門ですが野崎の自然石を利用した堂々とした校門である。



























テキスト ボックス:         野崎
   寄贈者野首 青年團