高麗島伝説



                  小値賀島周辺地

 
  























              良 島



















小値賀の本島から真西に十五キロメ‐トル程の海上に、美良島(びりょうじま)又は
美呂島と呼ばれる周囲四キロ足らずの断崖絶壁の無人の小島がある。
その地名はビリョウ樹(
しゅろの樹木(亜熱帯))が多く群生しているのでその地名が生まれたと言われている。
古くは一五九〇年代に豊臣秀吉が朝鮮征伐の時、戦勝を祈願して長楽寺を建立したと言い伝があり、
現在も寺屋敷跡と称する場所があるそうだが本格的な調査がなされてないので確かなことは判りません。
又、平成元年五月二十九日に日本で初めてベトナム難民(ボートピ―ブル)
一〇四名が漂着して有名になった島でもある。


          ベトナム難民漂着風景














この美良島はダルギク群生、ハチジョウススキ・ハマトラノオ群生・ハイビョクシン群生(世界における分布の南限地)等、
極めて自然度が高い植物が島全体を覆っている。
又絶滅の危険があるとされているヒゴタイや、ハマトラノオの生育が見られるなど、
学術上価値が高く平成五年に県の天然記念物に指定されている。

この島の左手に並んで、平島がある。昔は白瀬灯台の監視所と監視員の住宅がコンリート造りで
建てられていたが昭和二五年三月三一日小値賀本島に住宅を移してからは第二次大戦中、
米軍の爆撃で屋根が無いコンリート壁面の残骸だけが往時を偲ばせている。
だれが解放したのか何頭ものヤギの親子の群れが草をついばんでいる姿をよく目にする。
平島は呼んで名の如く平地で水が多いので雑草類が多くヤギの繁殖には最適な環境らしい。



                   
                                     白 瀬 灯 台























白瀬灯台はこれより十五キロメ‐トルばかり真西行った絶海の孤岩である。近づいてみると
岩の上にコンリートで固められた牽牛な造りの白い灯台が建っている。
海軍により明治三八年四月二五日初照燈し昭和二年七月に現在の鉄筋コンリート造りに替えたそうである。

昭和三十年代、東シナ海上の日本と韓国との間に、当時韓国の李承晩大統領が李‐ラインとよばれる
経済水域を勝手に線引きして日本の漁船を締め出し、それに従わない漁船を拿捕し抑留したことがある。
当時抑留者は四百人を超えていたがこの水域が好漁場の為日本の漁船も危険を覚悟で網を張り、
いざという時はこの白瀬灯台の明かりを目指して逃げたそうである。
灯台の明かりが見えた時は無事の帰還にさぞかし胸をなで降ろしたことであろう。ここは彼等の前線基地だったのだ。
これから又十二キロほどの西の方に海底に沈んだ島高麗島がある。

この付近は周囲の海面に比べたら浅くなっていて古くから高麗瀬、高麗曽根などと呼ばれ格好の漁場である。
この海底から時々漁師の網に陶器の破片などがかかるそうである。

              


二十年ほど前テレビで小松左京がダイバー達とこの場所に潜り高麗島の実在を検証しょうとしたが
石垣と思われる遺構や  陶器の破片などはあったが断定するだけの資料が見つからなかったのか
其の後この話は断ち切れになっている。

この高麗島の沈没伝説は民俗学者の柳田國男先生が昭和六年五月に小値賀・五島に民俗調査に来た時
聞いた話を書いた「島の人生、高麗島の伝説」に詳しく紹介されています。