さてこれからが本題である。浄善寺の古文書に「土高来怪物退治物語」
があり龍灯第七号に掲載されています
土高来怪物物語
藤将軍の近江公は筑紫松浦下五島及び所々異賊鎮護の為小値賀に住居すると云う(宝亀五年)
従是西海二十里のところに土高来島といって下道悪魔鬼の住む島ありて人を悩まし
仇をなす故是を征伐なさんと藤将軍近江公船をかまえて臣家の者を引きつれ中浜に出て給ふ処、
白髪の翁大いなるふせ苔の生えたる丈八尺に五寸の二又角の牛を引き出し
「我れ早助と申す翁なり、この牛は甚五郎牡(コッテ)と申すこれを伴い悪鬼征伐の
お供をいたさん」と申す公御覧ぜられ老人の危うきことを申せば、早助浜の大岩を引き起こし
片手に取って立並べて見せれば公驚き「万民安穏為守護、我に力を添え給え」と申せば、
早助翁合点と打ちうなずき「小舟にては危うし、幸いここに大舟あり神力丸と申すこれに乗り給へ」
ともうしけば近江公始め臣家共に乗り給えば早助翁甚五郎牡牛を引いて一緒に乗り給う。
早助翁一行が乗組んだ云われている船瀬港
友綱を解き順風に帆を上げて間もなく土高来に着きけるに、一天俄かに掻き曇り雨霰大風となりければ、
甚五郎牡牛島に飛び上がり気色を変え角を振りさばき彼方の天を睨みてうめく、
其の声天地に響き渡り島も崩れかと思うばかりうめき続ければ不思議又もとの晴天と成る。
又霰降りしきり四方も見えざるように成りければ早助翁大刀を引き抜き払えば元の晴天となる。
之によって下道供大いに恐れ驚き騒ぎあわてて廻りて、大盤石を持ち打ちひしがんと出たるを、
甚五郎牡牛下道を蹴倒し踏み殺し、二又角に引き掛けて海中に投げ込みければ下道共慌てて逃げ
廻るを翁は弓を射かけて之を討ち取り給う。そのとき下道悪鬼の大将、
一丈六尺五頭五面五眼稲妻の如くして現れ「我こそは土高来悪鬼、この島の主也」
と申し死物狂いに大盤石の岩を軽々と持ち上げ投げてくる。
甚五郎牡気色を変え一丈余りも飛上り二又角を四・五尺抜き出し大盤岩を二又角に引き掛け海中に投げ込み
更に悪鬼を角に引き掛け空に振り上げ手玉に取れば家臣、大良任・次郎任・矢九朗等矢を持って
四っ眼を射込みたり。早助翁又「思い知れ」と里余の矢を五面の真中に打抜給えばさすがの悪鬼も
地台に落ち苦しみ這い廻わるのを甚五郎牡角に引き掛けて海中に投げ込みたり。
やがて、下道共残らず平らげて島を改めるに人間と思しき者、四・五百人程住み至り。
早助翁申し上げれば「この島は神国に非ず、下道悪鬼の島なればやがて
波に揺り崩され海所と成るべし早くここを立退くべし」と、の給う。
一同は又神力丸に乗り込み間もなく元の中浜に着き給う。頃は雪降り積もる極月二十九日なり。
近江公は早助翁の前に両手を着き厚く禮をのべ、せめて御住居までお供仕らんと申し出けるに
早助翁ニコッと笑い給い「この舟は、舟瀬と申す岩瀬なり、故に神力丸とは汝幼少の時より君命を守り
孝心厚く万民をあわれみ苦労をなす。故に我力を添えたるなり船頭、船方と見しは海神の守護し給うところなり、
我は神島山絶頂の柴の庵に住む」の給いて雲の如く消え失せ給う。この時件の甚五郎牡は静々と舟より下り
渚さつたいに東をさして行きけるに、名残惜しげに一声高くうめきやがて波の中に沈みたちまち瀬となる。
乗船もいつの間にか瀬と変われり。故に瀬を牡(こって)瀬、その浜を池の下、船以成瀬により船瀬、
牛の歩行せしところを牛の元、翁の立てたる岩を立岩と称す年も明けて元旦近江公は臣家を引伴れ、
早助翁が衣冠束帯で御立ちになった王位石
神島山に参詣し絶頂に登りけるに丸き石盛立有是社之御室屋也一同歓喜三拝九拝奉る。
下向の途中大岩の上に件の翁衣冠束帯にて立ち給う。公、これぞ神嶋大明神と礼拝し給うに
臣家の者には鶴と見えしが忽ち消え失せ給う公はこの岩を王位石と称え一同大歓喜して下向し給う
神嶋大明神益信仰給うと云々
この物語は、桃太郎の鬼ヶ島征伐に良く似た話しで、キャスタ-がギジ・猿・
犬から牡牛と翁に変わっただけである。
征伐後、鬼ヶ島が沈没したのかどうかはわからないがこの話では島が海に沈んでいる。
この島沈没の話しは、日本や南方の島々に多く語り継がれている話である。
柳田先生の高麗島の伝説は五島の久賀島の蕨地区の伝説が原型と思われるが
小値賀の属島六島にも似たような話しが昔から伝わっている。
六島の港の入口に近いところに古山と言う雑木のこんもりと繁った丘があるが、ここには昔、
寺があったと言い伝えられ、この寺にまつわる面白い話を聞いたことがある。小値賀の西沖には高麗島があって、
鬼が住んでいたそうであるが、考えて見るとそれは海賊か、又は外人の漂着したものが土着したのであろう。
矢張り人間であったと思われる。その高麗島に大の弘法大師信者が住んでいたそうだ。
在る夜不思議にも枕辺に立たれた弘法大師が「早くこの島から逃げよ、今にこの島は沈むであろう」
と申されたので信者は大いに驚いて、近所の者にしらせたが信用しなかったので
自分の家族と大事に飼っていた小牛二頭を小船に乗せて、その夜のうちに島を離れた。
舟が余程岸からはなれたと思われる頃、すさまじい音がして山のような大波が押しよせて来た。
舟は傾いて水浸しとなり小牛二頭は海中になげ出されたが、これが無事に泳ぎついて、
小値賀牛の元祖となったそうである。水舟の中では生きた心地もなく、
舟縁にしがみついて一心に阿羅尼を唱えるばかりであったがその内に夜も明けはなれ、
波も静まったので付近の小島にたどりついた。その時見れば高麗島は海中に没しその姿はなかった。
早速、古山に少な寺を建て、半農半漁で生活をたてて大師信仰を怠らなかった。(小値賀郷土史より)
この話で西沖から六島にたどり着くまでには小値賀周辺には数々の島々が点在しているのに
なぜ一番遠い六島に辿り着いたのか又、この島から高麗島は素より西の島々は
小値賀本島の影で見えにくいはずである。
これ等の伝説は小値賀牛の宣伝や、お寺の宣伝、大師信仰を広めるための作り話だろう。
私自身子供の頃、小値賀牛の先祖は高麗島から泳いで渡って来たので強いんだと
何度も聞いてそれを信じていたが最近は農家も機械化で労力としての牛を必要としなくなり
高麗牛の話もとんと聞かなくなった。
似たような話は鹿児島県の下甑島にもありこの島も陶器を焼いていたそうである。
このときは金剛力士の石像の顔が赤く塗られている。
又、別府湾の瓜生島(うりゅうしま)にもこんな伝説が伝わっていた。
島には蛭子社で木彫りのエビス様を祀っており、『エビス様が怒って顔が真っ赤になると島が沈む』という言い伝えがあった。
だから島の人々は信心深くし、エビス様を丁重に祀って暮らしていた。ある時、ある若者がイタズラをして、
エビス様の顔を真っ赤に塗ってしまう。
赤くなったエビス様の顔を見た人々は皆、大急ぎで船で島から逃げ出した。エビス様の顔を塗った当人の若者は島にいて、
慌てて逃げる人々を笑いとばしていたが、そのとき島がぐらぐらと揺れはじめ、大きな津波が島を飲み込んだ。
島の人々は助かったが、瓜生島は跡形もなく海に沈んでしまったということだ。
他に白馬に乗った老人が「島が沈むから逃げろ」と急を告げる形式もある。
これもまたエビス様信仰布教の手段だろう。
このような話は沢山あり切がないので、水中考古学の山本先生がネットに高麗島の調査状況報告を発表しています。
http://www.h3.dion.ne.jp/~uwarchae/newasletter7-9.htm
最後に柳田國男先生の著書「島の人生」の最後の方に小値賀から五島の青方に渡るときの船上での
想いを著しているので載て終わります。
私は昭和六年の五月五日、小値賀丸という小さな発動機船をやとって、晴れて青々とした朝の海を、
笛吹から中通島の青方へ渡った。船の荷物といえば自分と黒い小さな革鞄だけであった。
船長はむしろを甲板の真中に敷いて私を坐らせ、其傍に来てしゃがんで色々の島の話をしてくれた。
見送りに来た諸君の差圖もあったからだが、一つにはこの若い船長の稀有の伝承者型であった為に、
僅か半日の海の旅が、こういう数限りも無い島々の昔話を、心付かしめたのであった。
全体に船の人たちは、取越し苦労というものが少ないように私は思う。
発動機が出来てからはなおの事だろうが、昔も順風に帆をかけた朝開きの快さは、
出たら直ぐに働く農夫などの味へぬものがあったらしい。そういう時刻の心持と雑話とは、
私には此上も無くゆかしいのである。小値賀の西にそばだった美良島などは、
曾て住む人も無かった樹林の島であるが、此あたりの漁民が之を親しみ友とするの情は、
我々の測り知り難い迄である。朝鮮の済州島は、ここからちょうど真北に当たって、
その航路約十七時間と言はれて居る。
それが美良の島の頭が見えなくなって後一時間と少しでもう着くのだというから、
海上では始終是ばかりを目標にして居たのである。口で言う場合も言わぬ場合もあろうが、
心は絶えず此島のまわりに在って、今は茫々たる荒波の底に沈んで眠って居る高麗島の繁華なども、
しばしば幻の間に去来したことは察せられる。海は恐らく伝説の沃野であったろうと思う。
(昭和八年五月、島)