小値賀町立診療所前の県道を右折れして海岸沿に船瀬方向にしばらく歩くとやがて歪曲した船溜まりが見えてくる。その入り江の付け根に、まるでフランス西海岸にあるモン・サン=ミセエルの小型版を連想させる石造りの小さな建物が見えてくる。
これがこの話の主人公である町指定文化財の「牛の塔」である。
この塔は自然の岩礁に石垣を施し其の上に砂岩の板石で四方を囲み屋根も同板石で葺いた堅牢な祠である
通称、島民はこの祠を「牛の塔」と呼んでいるが本来の牛の塔はこの祠の中に立っている自然石で、地上高一・六メートル、最長幅三十センチ、厚さ二十センチの細長い石の表面に文字を刻み、正月には頭部に注連縄飾りがされるのが『牛の塔』本体である。
この石碑の正面中央上部に梵字の釈迦が刻まれ、その下に奉納妙法蓮華経、右に大願主地頭肥前守源定、左に建武元年(一三三四年)甲戌九月□日と銘文を微かに読見取ることができる。
(この梵字刻印の石塔は中世の特徴で因みにこの梵字は「キリ-ク」と呼ばれ阿弥陀三尊の意味だそうである。)
(日にちに数字は入っていないがこれはおそらく彼岸二十三日のことであろう、外にもこの様な例があるからと元小値賀町民俗資料館の学芸員塚原先生は話している)
この石碑の正式名称は「大乗妙典碑」だそうである。
その名の由来はこの塔の地下に小石一つ一つに、経文を書いた一字一石経が六万九千三百八十四個埋納しているからだそうである。これと同等の大乗妙典碑は島内数カ所で見ることができる。
この「牛の塔」を祀るに至った経緯について簡単にお話すると
小値賀町本島は鎌倉時代頃までは大値賀島と小値島の両島に分かれていたがこの二島の海峡を建武元年(1334)にこの地方を治めていた平戸松浦家第15代当主「肥前守源定公」の命で埋め立て造田工事を行った。この海峡は狭くて海流が速いので埋立工事は人柱伝説を生むほどの難工事だったので沢山の使役牛が犠牲になったので定公はこれを悼み悲しんでこの供養塔を建立したのが由来である。
そして完成した水田は19ヘクタ-ル(17町歩)もあり、当時小値賀島は前浜島近浦(前方近浦)の低湿地および笛吹に僅かばかりの弥生時代からの稲作田しかなかったので、この新田開発で島民は多いに潤い、郷土の大恩人、定公への尊敬の念は益々深くなっていったのである。
この祠が現在のような石囲いの建物が出来るまでの約500年間この塔は風雨や荒波に直接晒されていた。島唯一の古跡「牛の塔」が年々風化していく姿に島民は嘆き悲しみ、なんとか防護策を施こして保存し、後世に遺さなければならないといろいろと試み、何度も屋根付きの石囲を施したが海から吹きあがる荒波や風雨は容赦なく石垣や屋根を直撃し、その度に崩れ落ちて長持ちしなかった。
明治四十五年、当時の笛吹村、村民総代「梶野英盛氏」も村長時代から長年このことに憂い嘆き、保存方法の素案として屋根も外壁も石造りの堅牢の屋代を考えついたが今度は資金面で目途が立たず長いこと着工出来ずにいたが、この牛の塔を祭った当の本人「源の定公」に贈位(生前の功労によって死後に位階をおくること。【贈 従 三位 】があり、その奉告祭に子孫に当たる当時東京在住の伯爵で貴族議員であった平戸松浦家の三十八代当主「厚公」が平戸に下向されることを新聞で知り、これを千載一遇の好機だと捉えて厚公に贈位を記念して資金援助をお願いしてみようと、梶野氏をはじめ当時の笛吹村の村長や代表者が請願書を持参して平戸に出向したのだったが厚公は一足違いで東京にお帰りになった後であった。
下の絵図は江戸時代、寛永元年(1848)小値賀郡代から平戸藩庁に指し出された「牛の塔」と周辺図ですがこれによると石積みの上に供養塔だけが立っているでこの屋代ができるまで約500年間はこの状態だったのでしょう。
牛の塔界隈図
寛永元年(1848) 牛の塔
それでは本題の「牛ノ塔」修繕工事に纏わる話をして見ます。
左記の和綴じの冊子は牛の塔建設の計画から竣工まで記録簿です.
この冊子の表題は「牛の塔修繕に関する」となっていますが上記の郡代から藩庁に1848年頃差し出した絵図では祠はなく剥き出しの供養塔だけが建っておりこの絵図から36年後の1912年の当該工事では新築とならず修繕となっていますがこの事は絵図とこの修繕工事設計図(下記)の青写真と比較して見ると岩礁の形が少し違っていて前より広くなっているので、今では石垣の間から小松も生えているので、この36年間に土や石を入れて基礎部を広く、頑丈にして祠を建てたが風雨や陳腐化で壊れかけたので基礎部を又補強し、前の祠の建築資材を再利用した個所もあるので新築と書かずに修善としたのではないだろかと推移測されます。
この記録簿に順じて話を進めます
平戸へ出向いて「松浦厚公」に建設資金をお願いに行った時の嘆願書
『今般先祖 源定公御贈位有之御奉告祭の為御下向相成候旨新聞上にて拝承し実は幸の御下向を機として我等共村民総代として別紙請願書携帯出平仕候処閣下には御用済の上既に御出立御帰京被遊候趣拝承誠に以て遺憾千萬奉存候乍恐御無礼を不顧別紙請願書奉提仕候祭 御直披の上特別之御恩恵を以て何卒 御聴許被下置度奉歎願候 誠惶誠懽謹言』
明治四拾五年三月弐拾五日
北松浦郡笛吹村村民総代
梶野英盛
同郡笛吹村長
中山彦四郎
従三位松浦伯爵閣下
簡単に訳すると
平戸松浦厚公のご先祖に当たる「源の定公」に贈位があり、その奉告祭(神に告げる)の為平戸にお帰りになった事を新聞で知ったので、これは又とない機会と捉えて我々村民の総代として別紙の請願書を持って平戸まで出向きましたが閣下はすでに御用を済まして東京に御帰りになられた後でした。誠に残念でした。
この上は恐れながら、ご無礼も顧みず別紙の請願書を提出いたしますのでどうか特別の恩恵を以ってお聴き許しくださいますようお願いいたします。」
という内容であろうがこの手紙の日付が3月25日で贈位は明治45年2月26日に従三位が贈られているので、贈位後すぐに平戸にお帰りなり、3月の中旬頃までには東京にお戻りになられたのであろう。
松浦家館(鶴ヶ峰)1890年竣工現松浦
次に請願書の内容を見てみると
請 願 書
一 金参百円也 御下賜金請願高
右小値賀島笛吹村中村郷字船瀬濱に存立致し候牛之塔は今を去る五百有余年前建武年間御祖先 源定公御建設の碑にて本嶋唯一の古蹟に候も是迠不完全之牆壁
垣とかべを施し候のみにて風潮に晒され遂に碑面の摩耗せん事を憂い久しく其の保存方を講し候へ共、本村方は今学校増築或は築港等にて民費増加し村民の負担軽かざる為め荏苒して今日に及び尚ほ施行致し兼ね候、今般御先祖定公御贈位の儀有之島民一同乍恐俽喜之情に耐へす之の機を記念として前記の金負御下賜被成下候に於いは別紙設計書及び予算書之通工事を施し一は永く保存の途に適し一は壮巌にして不敬の輩勿らしめ 御祖先の餘徳を永遠に伝え度存し候條何卒特別の御詮議を以て本願御採用被成下度御聴許の上は直に工事に着手し御下賜金は該工事竣工の上拝受可仕覚悟に御座候間この段伏て奉願候也
明治四拾五年三月二二日
長崎県北松浦郡笛吹村
村民総代 尼崎忠兵衛
同県同郡同村
同上 小田傳冶兵衛
同県同郡同村
同上 梶野英盛
同県同郡笛吹村村長
中山彦四郎
従三位松浦伯爵閣下
簡単に訳してみると
船瀬の浜に存立する牛の塔は、今から五百有余年前の建武年間に御先祖の源定公が建設した碑で、島内唯一の古跡であるので碑が傷まないように垣根や壁で覆ったりなどいろいろと試みたが、長年の風潮に曝されて遂に碑面が摩滅してしまいました。これを憂い長持ちするような保存方法考えましたが、当村は現在学校の増築、築港等で民費が増加して村民の負担が多い中、今日に至まで修復出来ない状態ですがこの度、御先祖定公御贈位の儀がありましたので島民一同恐れながら大喜びしております。
これを記念として前記の金額を御下賜くださいますよう別紙の設計書、予算書同封いたします。工事が完成した後は永久保存して島民が敬い先祖の功績、徳を後世に伝へて行きますので何卒特別の配慮を持って御採用して頂きますようお願いします。お聴き届け頂きましたら直ちに工事に着手し、御下賜金は工事竣工後に頂くこととしておりまのでよろしくお願いします
と言う内容であろう。
予 算 書
収 入
一 金五百五拾円也 収入金
内 訳
金三百円 御下賜金
金五拾円 笛吹村寄付請願予定
金参拾円 前方村寄付請願予定
金弐拾円 柳 村寄付請願予定
金百五拾円 個 人寄付請願予定
〆
支 出
一 金五百五拾円 支出金
内 訳
金四百八拾七円弐拾壱銭五厘 工事費
金六拾弐円七拾八銭五厘 竣工式費用
上記予算書を貸借表とグラフで見てみると
予 算 書
収 入 金 額(銭) 支 出 金 額(銭) (内 訳) ( 内 訳) 御下賜金 300.000 総 工 費 487.215 笛吹村寄付請願予定 50.000 竣工費(その他雑費) 62.785 前方村寄付請願予定 30.000 柳村寄付請願予定 20.000 有志寄付予定 150.000 合 計 550.000 合 計 550.000
これによると収入金の55パ-セントが厚公からの下賜で有志者からの寄付金と合わせると82パ-セントとなる。
残金を旧三村に割当てて郷民に寄付を募る計画であった。
次に工事の内容を工事別に分けて見てみる
笛吹村那賀村郷牛ノ塔圍壁改築及通路、階段、鉄柵新設工事計書
一金四百八拾七円弐拾壱銭五厘 総工費
内
金百参拾七円60四銭 通路(長 参拾六間 巾 壱間 高 満潮以上壱尺五寸)工費
内 訳
材 料 |
|
寸 法 |
|
員 数 |
単 価 |
金 額 |
適 要 |
|
長(尺寸分) |
巾尺寸分 |
高尺寸分 |
|
円銭厘 |
円銭厘 |
|
通路工費 |
|
|
|
|
|
137.640 |
|
野 面 石 |
扣へ弐尺 面 弐拾五石 |
面 |
三十九坪六合 |
1.500 |
59.400 |
両側築造用 五分は在来使用 |
|
栗 石 |
大 小 |
|
立 |
八坪 |
2.000 |
16.000 |
中込み用 五分は在来使用 |
玉 砂 利 |
径壱寸八分 |
|
立 |
壱坪八合 |
1.800 |
3.240 |
通路面 敷き均し用 厚五勺 |
石 工 |
|
|
|
四〇人 |
0.800 |
32.000 |
石垣築造用 |
人 足 |
|
|
|
六〇人 |
0.450 |
27.000 |
石工手伝古石運搬床堀砂利敷共 |
|
|
|
|
|
|
|
|
金九拾九円五拾八銭五厘 階段及鉄柵工費
内 訳
材 料 |
|
寸 法 |
|
員 数 |
単 価 |
金 額 |
適 要 |
|
長(尺寸分) |
巾尺寸分 |
高尺寸分 |
|
円銭厘 |
円銭厘 |
|
階段及鉄柵工費 |
|
|
|
|
|
99.585 |
|
石 工 職 |
|
|
|
三人 |
0.800 |
2.400 |
障得石切取り用 |
野 面 石 |
扣へ壱尺 面 弐拾五石 |
面 |
四坪 |
|
|
詰所石垣築石用在来石使用 |
|
栗 石 |
|
|
立 |
壱坪弐合 |
|
|
中込み用裏込用在来使用 |
小値賀産又同等以上切石 |
参尺 |
0.95 |
0.60 |
2〇本 |
1.020 |
20.400 |
段石用 |
上 仝 |
参尺以上 |
0.85 |
0.60 |
七間五分 |
1.850 |
13.875 |
左右登り縁石用 |
上 仝 |
切石参尺 |
0.60 |
0.60 |
六本 |
0.755 |
4.530 |
鉄柵親柱用 |
上 仝 |
2.5寸 以上 |
0.60 |
0.60 |
三間二分 |
1.300 |
4.160 |
鉄柵台石用 |
セメントモルタル |
セメント壱 砂弐の割合 |
|
七切 |
0.600 |
4.200 |
鉄柵台石親柱階段目塗用 |
|
玉 砂 利 |
径六分以上 |
|
|
立 7勺五才 |
0.040 |
0.220 |
上段敷き均し用厚三勺 |
石 工 |
|
|
弐拾参人 |
0.800 |
18.400 |
切石彫刻据付及石垣築共 |
|
人 足 |
|
|
|
弐拾人 |
0.450 |
9.000 |
石工手伝へ及セメント目塗り用 |
鉄 柵 |
高弐尺五寸 |
図面之通り |
|
三間二合 |
7.000 |
22.400 |
帯鉄巾1.2寸厚3分丸鉄径5分 |
|
|
|
|
|
|
|
|
金弐百四拾九円九拾9銭 塔圍壁切石積み巻上げ工費
内 訳
材 料 |
|
寸 法 |
|
員 数 |
単 価 |
金 額 |
適 要 |
|
長(尺寸分) |
巾尺寸分 |
高尺寸分 |
|
円銭厘 |
円銭厘 |
|
塔圍壁切石積工費 |
|
|
|
|
|
249.990 |
|
小値賀産又同等以上切石 |
二尺 以上 |
0.80 |
0.75 |
参拾七間八合 |
2.200 |
83.160 |
四方袖石基礎石後壁拾壱段用 |
上 仝切石 |
二尺 以上 |
0.85 |
0.75 |
弐拾参間 |
2.250 |
51.750 |
巻上げ石用 |
上 仝切石 |
二尺以上 |
1.00 |
0.85 |
一間五合 |
3.060 |
4.590 |
巻上げ止め拱石用 |
上 仝切石 |
三尺五寸 |
1.00 |
0.70 |
弐本 |
1.470 |
2.940 |
仝足留め用2段分 |
上 仝切石 |
三尺六寸 |
1.20 |
0.80 |
弐本 |
2.070 |
4.140 |
出入口蹴放石左右柱用 |
上 仝切石 |
一尺二寸 |
0.80 |
0.70 |
拾七本 |
0.390 |
6.630 |
上仝槓巻き上げ用 |
割 石 |
扣壱尺五寸 |
面参拾石 |
面 |
弐坪 |
|
|
左右外部石垣用古石使用 |
天川コンクリ-ト |
生石芭灰参粘土参玉砂利六ノ割合立 |
参合 |
1.500 |
4.500 |
右裏込用 |
||
セ メ ン ト |
七斗入 |
|
|
弐樽 |
4.500 |
9.000 |
切石積合端敷きこみ厚壱合五勺 |
砂 |
七斗入 |
|
|
四樽 |
0.200 |
0.800 |
仝調合用 |
五島産板石 |
三尺五寸 |
1.00 |
0.20 |
拾四枚 |
0.220 |
3.080 |
内部敷詰め用 |
石 工 |
|
|
|
六拾人 |
0.800 |
48.000 |
彫刻仕上迄石垣築造内部張石共 |
人 足 |
|
|
|
五拾人 |
0.450 |
22.500 |
古石取崩石工手伝目塗塔立直共 |
センタ-材 |
松材、松板、鍄、洋釘 共 |
|
|
|
5.000 |
使用中損料古材にてもよし |
|
大 工 |
|
|
|
四人 |
0.750 |
3.000 |
センタ-組立一式 |
人 足 |
|
|
|
弐人 |
0.450 |
0.900 |
大工手伝へ用 |
|
|
|
|
|
|
|
|
右
明治四拾五年弐月拾九日
中野袈裟六
各工事の合計金額を表とグラフにして見ると
各 工 事 | 金 額 (銭) |
通 路 工 事 | 137.640 |
階 段 及 鉄 柵 工 事 | 88.585 |
塔 圍 壁 切 石 工 事 | 249.990 |
合 計 | 487.215 |
工 事 仕 様 書
一 通路 長参拾六間 高 満潮以上壱尺五寸 巾 一間
仕 様
両側石垣は野面石扣の弐尺以上面弐拾五石のものを使用地盤は岩石に達するまで堀り浚へ根石据え付け合端噛み合せより築き立て天石には最も大なるものを撰用し満潮以上壱尺五寸高低なき様仕上げ裏込石は目隙なき様丁寧に詰め込み通路面は玉砂利径壱寸五分以下のものを厚参寸平均に敷き均し仕上げるものとす尤も之に使用する石材は在来の通路を取崩し使用し不足は他より運搬使用するものとす
一 階段 幅参尺 踏み面九寸 蹴上げ六寸 弐拾段、左右登り縁石付
一 鉄柵 高弐尺五寸 延長参間弐合 親柱及台石付
仕 様
階段障得の岩石は諸所切り取り凹低のヶ所は指定の通り古石を以て石垣を築造し小値賀産又は仝等以上の切石 高九寸五分 幅六寸の段石斧切り仕上げ出入高低なく据え重ね両縁登り石仝石 高八寸 幅六寸のもの斧切り仕上げ通りより据付け飼ひ堅め段石縁石共「セメントモルタール」にて目塗りをなすものとす
鉄柵は親柱前仝石長三尺五寸 六寸角四方斧切鉄柵取付けの穴を彫り頭は方錐に切り立て根元は台石の抐に嵌め込み立て込み仝台座仝石六寸角上端櫛型に切り立て柱当たりは抐付け据え堅め「セメントモルタール」にて目塗りなすものとす
鉄柵は帯鉄 巾一寸二分 厚三分 丸鉄径 五分のものを以って高さ弐尺五寸と図面に俲ひ仕拵へ両端は石に指し込み鉛又は硫黄止めとして取り付けたる上「コールタル」塗りとし仝鉄柵内平地には径六分以下の玉砂利を厚参勺通り敷き均すものとす
一 塔圍壁兼屋形 内法7尺方 高内法七尺 袖石積及外部石垣付
仕 様
圍壁厚さは八寸五分とし小値賀産又は仝等以上の石材を以って図面と俲ひ割合せ合端及び内部は小鑿切外部は江戸切に仕上げ 内法七尺方 高内法七尺と図の如く積み立て合端は総て「セメント」流し「トロ」を施し入念目塗りをなすべし出入口は幅五尺四寸高内法六尺弐寸に図面因て仕拵へ四方の袖口は高七寸二分のもの八段基礎石と接続する様図面に俲ひ積み立て合端は前仝「セメント」敷きとし目塗り致し左右外部とは在来石をを以って丁寧に袖石と仝高に石垣を築き立て裏込み及合端等は「天川コンクリート」充分搗き込み出来の上外部より「セメント」にて目塗りを施すものとす内部は塔を建て直したる后五島板石斧切りのもの敷き詰め「セメント」にて目塗りをなすものとす
右
設 計 図
正面図
側面図
このように上記書類を送付したが当時の平戸松浦の家扶「神保雄蔵氏」から明治四十五年四月八日付の手紙に
「東京宅へ書類を送り裁可を仰いだところ設計について熱心にご意見を述べられ設計をもう一度やり直してはとの事でした。
と返事があり。
そこで再度設計、見積書をやり直して今度は下賜金を参百円から半額の百五十円にして再度願書を今度は松浦伯爵でなく松浦伯爵御令扶殿宛てに四月十七日付けで出している。
再 願 書
本年三月二二日付け以て笛吹村中村郷字船瀬濱に存立する牛之塔修繕費御下賜金請願書に対し種々御気付之廉有之候に付別紙之通設計書及豫纂書等変更の上再び書類奉提仕候実は当時該工事着手の好時期に付け願くは特別の御詮議を以って速に御聴許相成候様御執成被下置度此段再願仕候也
明治四拾五年四月十七日
北松浦郡笛吹村
村民総代 尼崎忠兵衛
同郡同村
仝上 小田傳冶兵衛
同郡同村
仝上 梶野英盛
同郡笛吹村村長
代理助役 川村直太郎
松浦伯爵御令扶殿
予 算 書
収 入
一 金参百五拾円也 収入金
内 訳
金百五拾円 御下賜金
金五拾円 笛吹村寄付請願予定
金参拾円 前方村寄付請願予定
金弐拾円 柳 村寄付請願予定
金百五拾円 個 人寄付請願予定
〆
支 出
一 金参五百五拾円 支出金
内 訳
金参百拾円九拾四銭 工事費 総工事費
但別紙設計書之通
金参拾九円六銭 竣工式費用
但竣工式費其他欠ぐべからざる必要の諸雑費予定
これを貸借表にしてみると下記のようになる
収 入 | 金 額(銭) | 支 出 | 金 額(銭) |
(内 訳) | ( 内 訳) | ||
御下賜金 | 150.000 | 総 工 費 | 310.940 |
笛吹村寄付請願予定 | 50.000 | 竣工費(その他雑費) | 39.060 |
前方村寄付請願予定 | 30.000 | ||
柳村寄付請願予定 | 20.000 | ||
有志寄付予定 | 100.000 | ||
合 計 | 350.000 | 合 計 | 350.000 |
下賜金が当初の計画より半額の150円となり有志の寄付金も150円から100円と減額されているが他の寄付金は当初の寄付金額と同額であ
収入金をグラフにすると
支出を見てみる
工事明細を表にまとめてみた
笛吹村那賀村郷牛ノ塔圍壁、外貮廉改築及通路改修工事設
一金参百拾円九拾参銭 総工費
内
金七拾五円九拾参銭 圍壁工費
内 訳
材 料 |
|
寸 法 |
|
員 数 |
単価 |
金 額 |
適 要 |
|
長(尺寸分) |
巾尺寸分 |
高尺寸分 |
|
円銭厘 |
円銭厘 |
|
塔圍壁工事工費 |
|
|
|
|
|
75.930 |
|
五 島 産 切 石 |
2.50 |
0.72 |
0.80 |
16本 |
0.400 |
6.400 |
正面左右袖石垣 |
仝 上 |
6.00 |
0.80 |
0.90 |
2本 |
1.800 |
3.600 |
正面出入口柱石用 |
仝 上 |
3.60 |
0.60 |
1.00 |
2本 |
0.500 |
1.000 |
出入口地覆石用 |
仝 上 |
3.00 |
0.72 |
1.00 |
5間2分 |
1.150 |
5.980 |
側面背面垣上縁石用 |
野 面 石 |
扣へ壱尺以上 |
面 八寸以上 |
|
7坪6合6勺 |
在来古石使用 |
|
圍壁両面石垣築石用 |
天川コンクリ-ト |
生石灰、参.・粘土、参・玉砂利、六 |
之割合 |
7坪 7号5勺 |
15.000 |
11.250 |
仝石垣裏込胴詰メ用 |
|
セ メ ン ト |
七斗入 |
|
|
2樽 |
4.500 |
9.000 |
石垣目塗用 |
砂 |
七斗入 |
|
|
5樽 |
0.100 |
0.500 |
仝用 |
石 工 職 |
|
|
|
30人 |
0.800 |
24.000 |
切石彫刻積み立て壁石垣築造用 |
左 官 職 |
|
|
|
2人 |
0.800 |
1.600 |
石垣目塗用 |
人 足 |
|
|
|
28人 |
0.450 |
12.600 |
石工左官手伝用 |
|
|
|
|
|
|
|
|
金四拾九円弐拾壱銭 屋形工費
内 訳
材 料 |
|
寸 法 |
|
員 数 |
単 価 |
金 額 |
適 要 |
|
長(尺寸分) |
巾尺寸分 |
高尺寸分 |
|
円銭厘 |
円銭厘 |
|
屋 形 工 費 |
|
|
|
|
|
49.210 |
|
五島産切石 |
長図面朱照 |
0.80 |
1.00 |
延長2間3分 |
1.200 |
2.760 |
正面出入口積み上げ用 |
仝 上 |
長図面朱照 |
0.80 |
1.00 |
延長3間7分 |
1.200 |
4.440 |
背面妻積み上げ用 |
仝 上 |
長七尺五寸 |
0.80 |
0.90 |
1本 |
2.500 |
2.500 |
棟受石用 |
仝 上 |
長六尺五寸 |
1.05 |
0.55 |
22本 |
1.250 |
27.500 |
屋形張石用 |
仝 上 |
長4尺一寸 |
0.60 |
0.70 |
3本 |
0.500 |
1.500 |
棟覆石 |
セ メ ン ト |
|
|
|
2斗 |
0.700 |
1.400 |
切石積下敷き合端、塗り込み目塗 |
砂 |
|
|
|
5斗 |
0.160 |
0.080 |
仝調合用 |
玉 砂 利 |
径五分以上 |
|
|
立 7勺 |
0.040 |
0.280 |
塔周囲敷付け用 |
石 工 職 |
|
|
|
7人 |
0.800 |
5.600 |
彫刻より仕上げ迄 |
人 足 |
|
|
|
7人 |
0.450 |
3.150 |
石工手伝へ及目塗り用 |
|
|
|
|
|
|
|
|
金四拾八円壱拾六銭 階段及足留工費
内 訳
材 料 |
|
寸 法 |
|
員 数 |
単 価 |
金 額 |
適 要 |
|
長(尺寸分) |
巾尺寸分 |
高尺寸分 |
|
円銭厘 |
円銭厘 |
|
階段及足留工費 |
|
|
|
|
|
48.160 |
|
野 面 石 |
扣へ壱尺五寸 |
|
面弐拾五石 |
面 4坪 |
在来古石 |
使用 |
諸所石垣石用 |
栗 石 |
径五寸以上 |
|
|
立 壱坪弐合 |
在来古石 |
使用 |
中込み裏込用 厚平均3合 |
五 島 産 切 石 |
長参尺 |
0.95 |
0.60 |
2拾本 |
0.400 |
8.000 |
段石用 |
五 島 産 切 石 |
長参尺以上 |
0.85 |
0.60 |
7間5分 |
0.780 |
5.850 |
左右登り縁石用 |
五 島 産 切 石 |
長弐尺 |
0.70 |
0.70 |
6本 |
0.250 |
1.500 |
上段足留め親柱用 |
五 島 産 切 石 |
長弐尺五寸 |
0.60 |
0.60 |
延長6間8分 |
0.600 |
4.080 |
仝足留め用2段分 |
セ メ ン ト |
|
|
|
4斗 |
0.700 |
2.800 |
石材下敷及び目塗り用 |
砂 |
|
|
|
1石 |
0.016 |
0.160 |
仝調合用 |
玉 砂 利 |
径五分以上 |
|
|
立 5勺5才 |
|
0.220 |
足留め内敷き均し用 厚3勺 |
石 工 職 |
|
|
|
3人5分 |
0.800 |
2.800 |
障得岩切 彫用火薬代共 |
石 工 職 |
|
|
|
20人 |
0.800 |
16.000 |
石材彫刻据付迄 |
人 足 |
|
|
|
15人 |
0.450 |
6.750 |
石工手伝い及びセメント塗迄 |
|
|
|
|
|
|
|
|
金壱百参拾七円六拾四銭 通路工費
内 訳
材 料 |
|
寸 法 |
|
員 数 |
単 価 |
金 額 |
適 要 |
|
長(尺寸分) |
巾尺寸分 |
高尺寸分 |
|
円銭厘 |
円銭厘 |
|
通路工費 |
|
|
|
|
|
137.640 |
|
野 面 石 |
扣へ弐尺以上面弐拾五石以上 |
面参拾9坪6合 |
1.500 |
59.400 |
両側築石用 外五分は古石使用 |
||
栗 石 |
大 小 |
|
|
立 8坪 |
2.000 |
16.000 |
中込み用 外五分は古石使用 |
玉 砂 利 |
径一寸五分以上 |
|
|
1坪8合 |
1.800 |
3.240 |
通路面敷き均し用 厚五勺 |
石 工 職 |
|
|
|
40人 |
0.800 |
32.000 |
石垣築造用 |
人 足 |
|
|
60人 |
0.450 |
27.000 |
石工手伝及古石運搬、床堀、砂利敷き共 |
|
総 工 費 |
|
|
|
|
|
310.940 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
各 工 事 |
金 額 |
圍
壁 工 費 |
75.930 |
屋 形 工 費 |
49.210 |
階段及足留工費 |
48.160 |
通 路 工 費 |
137.640 |
合 計 |
310.940 |
工 事 仕 様 書
一 塔圍壁 内法七尺方正面出入口左右袖石積 内部石垣高六尺側背面は石垣築
仕 様
出入口は高 内法五尺七寸 幅内法五尺四寸とし使用の切石は総て五島産堅質のものを撰用すべく 柱石八寸、九寸地覆石六寸、一尺壁石垣上縁石七寸二分、一尺 何れも見え掛掛りけ合端共斧切仕上げセメントモルタ―ルにて据え付け合端は丁寧に目塗りを施すべく袖石七寸二分、八寸合端小鑿切見え掛りは江戸切とし前仝モルータルにて積み立て化粧目地塗りなすものとす
側面背面は在来古石を以って両面共摘當の石を撰用し天川コンクリ―トを尻飼胴飼とし出入なき様築き上げ石継ぎ目は総て前仝モルタ―ルを以って内外共化粧目塗りをなすものとす。
内部塔の周囲は玉砂利径五分以下のものを厚五勺敷き均すものとす。
一 屋 形 両妻切石積み上げ 屋根板石張りセメント塗
仕 様
石材は前仝質のもの両妻は八寸、壱尺図面の通り長さ切り揃へ見え掛り合端共斧切仕上げ棟受け石當りは具合能く掘り取り前仝モルタールにて積み立て目塗り前仝に施し棟受石八寸、九寸上端勾配に切り取り両端は堅固に架渡し仝屋根石長六尺五寸頭、立水と拝み合わせ上下小鑿切り致し軒先は縁石と踏み止めしめ幅八寸以上に割合せ合端は間隙なき様切合わせ雨水の漏らざる様セメントして目塗り致し仝上棟押へ石六寸、七寸、上端両小返りに切り取り下端屋根石と馴染みをり操り取りモルタール敷き付け置き渡すものとす
一 階段幅参尺 踏み面九寸 蹴上げ六寸 貳拾段左右登り縁石付
一 上段足留め 高壱尺弐寸 延長三間八合
仕 様
階段と障得の岩石諸所切り取り凹低の指定の通り古岩を以って石垣を築造し石材は前仝質のもの段石九寸五分、六寸登り縁石八寸五分、六寸見掛り合端共総斧切に仕上げ出入高低なく据え付け入念飼ひ堅めセメントモルタ―ルにて叮寧に目塗りをなすものとす
上段足留めは前仝石親柱は七寸角頭方錐に切四方は斧切り根元枘付け建て固め足留め石は六寸角弐段と重ね上段石は上端両小返り又は櫛形と切り斧切り仕上げ前仝モルタ―ルにて積み重ね親柱取付けは枘入れとしセメントにて塗り仕上げ仝内部には玉砂利径五分以下のもの厚三勺通り敷き均すものとす
一 通路 長参拾六間 高 満潮時以上壱尺五寸 幅 壱間
仕 様
両側石垣は野面石扣へ貮尺以上面弐拾五石掛り以上のを使用地盤は岩石迄堀り浚へ根石据え付け合端噛み合わせより築き立て天石には最も大なるものを撰用し出入高低なき様仕上げ裏込石は目隙き少なき様詰め込み通路面は玉砂利の径壱寸五分以上のものを厚参寸平均敷き均し仕上げるものとす但し之を使用する石材は在来の通路を取り崩し使用し不足は他より運搬使用するものとす
右
設 計 図
正 面 図
側面図
現在の「牛の塔」と各工事内容
正面(階段及足留工事) 天井(屋形工事)
内部、塔の後方(天川コンク-リ-ト) 参道(道路工事)
外壁(圍
壁 工 費)
それでは当初の予算と採用した予算の資材・工賃の差異
当初計画
費 目 金 額 割 合 野 面 石 59.4 12.18 栗 石 16 3.3 玉 砂 利 3.46 0.7 小値賀産切石 196.175 40 五島産板石 3.08 0.63 天川コンクリ-ト 4.5 0.92 セメント 13.2 2.7 砂 0.8 0.16 鉄 柵 22.4 4.6 センタ-材 5 1.26 石 工 100.8 20.7 大 工 3 0.6 人 足 59.4 12 合 計 487.215 100
採用計画
費 目 金 額 割 合 五島産切石 75.11 24 野面石 59.4 19 栗石 16 5 玉砂利 3.74 1 砂 0.74 0.3 セメント 13.2 4.2 天川コンクリ-ト 11.25 3.6 石 工 48.4 16 左 官 33.6 10.9 人 足 49.5 16 合 計 310.94 100
当初の設計と採用された設計では屋根型の構造がまったく違い、当初では塔圍壁切石工事、即ちド-ム形工法なので小値賀切石と石工賃の費用が総工費の60%を占めるているが、採用された工法は切妻造りで、しかも五島産の切石を使用したので建設費も石工賃も含めて総工費の40%となり、その分安くなっているが、最初の設計通りに施行されていたならば、当時と しては珍しい西洋風のモダンなド-ム形屋根の「牛の塔」が船瀬の浜に出現して、今以上に小値賀名所となり、国、県指定の文化財・建造物になったかもしれない。
牛ノ塔修繕工事費報告書
大正元年12月
収 入 の 部 |
予 算 |
金額(銭) |
支 出 の 部 |
予算 |
諸口 |
金額(銭) |
支払先 |
|
内 訳 |
|
内 訳 |
|
|
||||
牛塔修繕寄付人名 |
|
請負工事費 |
310.940 |
|
242,500 |
中野 |
||
従三位伯爵松浦厚公 |
150.000 |
150,000 |
碑石四本代 但台石共 |
|
52,000 |
|
||
笛 吹 村 |
50.000 |
40,000 |
地下石四本外 |
23,500 |
|
中野 |
||
合資会社小値賀鮑集所 |
20,000 |
五島石三本外 |
28,500 |
|
川崎 |
|||
笛吹郷在部 |
10,000 |
碑銘刻請負賃 |
|
30,000 |
中野 |
|||
小値賀魚市場 |
10,000 |
祭典費 |
|
3,000 |
|
|||
新町漁業団 |
8,000 |
残工事費 |
|
1,000 |
中野 |
|||
九十九銀行小値賀支店 |
5,000 |
角力費 但中村郷請負 |
|
54,000 |
○ |
|||
小値賀沃度合資会社 |
5,000 |
祭典来客賄費 |
39.060 |
|
25,150 |
○ |
||
小田傳治兵衛 |
5,000 |
雑費 |
|
22,850 |
|
|||
小西常蔵 |
5,000 |
内 訳 |
|
|
|
|||
大浦郷 |
4,000 |
工事設計謝儀 |
2,000 |
|
梶野 |
|||
小西八百吉 |
4,000 |
梶野英盛氏工事に関して |
|
|
|
|||
大島郷 |
3,000 |
松浦家へ出頭汽船賃其他 |
3,910 |
|
梶野 |
|||
藪呂木郷 |
3,000 |
工事願書数人東京発平戸 |
|
|
|
|||
黒島郷 |
3,000 |
船送費 |
440 |
|
梶野 |
|||
有志寄付者 3.000×24名 |
100.000 |
72,000 |
平戸へ電信料 |
200 |
|
梶野 |
||
前方村 |
30.000 |
14,000 |
中折50枚他 |
125 |
|
梶野 |
||
相津觸 |
7,000 |
寄付金人名書料 |
1,000 |
|
松浪 |
|||
後目觸 |
7,000 |
御下賜御書を謄写料 |
1,500 |
|
山崎 |
|||
牛渡觸 |
4,500 |
寄付金取立賃 |
1,000 |
|
中原 |
|||
前目觸 |
4,500 |
修繕工事協議の為三村長 |
|
|
|
|||
唐見崎 |
3,000 |
其他集合のおり酒代 |
1,000 |
|
小澤 |
|||
柳村 |
18,000 |
掛札用松板壱枚外 |
250 |
|
梶野 |
|||
松本甚吾 |
5,000 |
糯米代六升代 |
1,650 |
|
尼忠分店 |
|||
柳郷 |
20.000 |
3,000 |
手数料小田様 |
50 |
|
|
||
濱津郷 |
3,000 |
手拭六反代 |
2,400 |
|
尼忠本店 |
|||
柳村士族社 |
3,000 |
写真代 |
2,500 |
|
|
|||
柳村青年会 |
3,000 |
石運送賃 |
400 |
|
田口廻漕 |
|||
樽料 |
8,500 |
マキ浅 |
100 |
|
|
|||
|
|
セメント代 |
500 |
|
|
|||
中村郷人夫 350人 |
|
儀式に関する人夫其他雑費 |
3,375 |
|
|
|||
|
|
残 高 |
450 |
|
|
|||
|
|
|
22,850 |
|
|
|||
総収入合計 |
350.000 |
430,500 |
総支出合計 |
350.000 |
|
430,500 |
|
右之通り収入支出相違いなき候也
大正元年12月11日
中山彦四郎
小田傳治衛
尼崎忠兵衛
梶野英盛
収入の寄付金が小値賀全域から予算額より二割以上も集まっているが、いかに当時の島民が定公を親しみと尊敬の念を持ち、牛の塔の再建を待望していたかが伺いしれます。起工式の費用も相撲興行等して盛大に行われていた
それではこの「牛の塔」を現在建設した場合どれぐらいの金額になるのか工事費報告書を元に試算して見ました。
明治末期と今日とはもちろん貨幣価値が違うので正確な計算はできませんが、当時の有志の寄付金や大工賃から比較して今日の相場や世評から考えると明治の貨幣金額を2万倍したら、今の貨幣価値に近ずくのではないかと思いそれで試算してみました。
正確ではありませんがが大まかな数字を掴めるのではないかと思います。
現代版牛ノ塔修繕工事費報告書
平成21年10月
収入の部 |
円 |
支出の部 |
諸 口 |
円 |
|
|
内 訳 |
|
内 訳 |
|
支払先 |
||
牛塔修繕寄付人名 |
|
請負工事費 |
|
4.850.000 |
中野 |
|
従三位伯爵松浦厚公 |
3.000.000 |
碑石四本代 但台石共 |
|
1.040.000 |
|
|
笛 吹 村 |
800.000 |
地下石四本外 |
470.000 |
|
中野 |
|
合資会社小値賀鮑集所 |
400.000 |
五島石三本外 |
570.000 |
|
川崎 |
|
笛吹郷在部 |
200.000 |
碑銘刻請負賃 |
|
600.000 |
中野 |
|
小値賀魚市場 |
200.000 |
祭典費 |
|
60.000 |
|
|
新町漁業団 |
160.000 |
残工事費 |
|
20.00 |
中野 |
|
九十九銀行小値賀支店 |
100.000 |
角力費 但中村郷請負 |
|
1.080.000 |
○ |
|
小値賀沃度合資会社 |
100.000 |
祭典来客賄費 |
|
503.000 |
○ |
|
小田傳治兵衛 |
100.000 |
雑費 |
|
457.000 |
|
|
小西常蔵 |
100.000 |
内 訳 |
|
|
|
|
大浦郷 |
80.000 |
工事設計謝儀 |
40.000 |
|
梶野 |
|
小西八百吉 |
80.000 |
梶野英盛氏工事に関して |
|
|
|
|
大島郷 |
6.0000 |
松浦家へ出頭汽船賃其他 |
78.200 |
|
梶野 |
|
藪呂木郷 |
60.000 |
工事願書数人東京発平戸 |
|
|
|
|
黒島郷 |
60000 |
船送費 |
8800 |
|
梶野 |
|
有志寄付者 60.000×24名 |
1.440.000 |
平戸へ電信料 |
4.000 |
|
梶野 |
|
前方村 |
280.000 |
中折50枚他 |
2.500 |
|
梶野 |
|
相津觸 |
140.000 |
寄付金人名書料 |
20.000 |
|
松浪 |
|
後目觸 |
140.000 |
御下賜御書を謄写料 |
30.000 |
|
山崎 |
|
牛渡觸 |
90.000 |
寄付金取立賃 |
20.000 |
|
中原 |
|
前目觸 |
90.000 |
修繕工事協議の為三村長 |
|
|
|
|
唐見崎 |
60.000 |
其他集合のおり酒代 |
20.000 |
|
小澤 |
|
柳村 |
360.000 |
掛札用松板壱枚外 |
5000 |
|
梶野 |
|
松本甚吾 |
100.000 |
糯米代六升代 |
33.000 |
|
尼忠分店 |
|
柳郷 |
60.000 |
手数料小田様 |
10000 |
|
|
|
濱津郷 |
60.000 |
手拭六反代 |
48.000 |
|
尼忠本店 |
|
柳村士族社 |
60.000 |
写真代 |
50.000 |
|
|
|
柳村青年会 |
60.000 |
石運送賃 |
8.000 |
|
田口廻漕 |
|
樽料 |
170.000 |
マキ残 |
2.000 |
|
|
|
|
|
セメント代 |
10.000 |
|
|
|
中村郷人夫 350人 |
|
儀式に関する人夫其他雑費 |
67.500 |
|
|
|
|
|
|
|
|||
|
|
|
457.000 |
|
|
|
総収入合計 |
8.610.000 |
総支出合計 |
|
8.610.000 |
|
となりますが、今日では調達不可能な切り石等もあるので、明治時代と同等の建物は建設不可能でしょう。
当初の設計では、階段や囲壁工事の中で小値賀産又は同等切り石となっているが、やり直しの設計では五島産の切り石を仕様となっている。
設計が当初とまったく違うので、小値賀産と五島産の切り石の単価の違いを正確に把握できないが、上記のそれぞれの仕様単価から判断すると五島産は小値賀産の半値以下となっている。
普通に考えて小値賀と五島では地形の成り立ちが違い、五島は至る所に砂岩が露出していて石の切出しも容易ですが、小値賀は火山島で本島では砂岩は産出されず、野崎島と西沖の平島、美良島、倉島、にはあるにはあるが、海岸から直ぐに岩がそそり立っており足場も悪く、又島内には波止場や道路もないので直接海岸に横着けして、荒波の中を切り出さなければいけないので大変危険な作業が伴うので、どこの岩場から切り出していたのか解らなかったが、先般、元通産業省工業技術院地質調査所主任研究松井和典先生に同行して小値賀島周辺の島々の火山噴火の見学と説明を拝聴した時、平島・美良島の場所で、「この砂岩は質が良く長崎市内の石畳に切り出されていた」と説明されたので、この場所付近から切り出す予定だったのだろう。
次は落成式の案内状である
拝 啓明十日牛之塔保存修繕工事落成に付清秡式執行神酒差上度候條午前十時仝所へ御來拝被下度比段御案内申上候也但雨天の時は順延
大正元年十二月九日中 山 彦 四 郎
梶 野 英 盛
この牛の塔完成を記念して余興として奉納相撲が行なわれている。
奉納相撲は笛吹村中村郷が勧進元を請負い諸費用が五拾四円掛かっている。
廣 告
明日十日船瀬牛の塔修繕工事落成に付き清秡式執行後
同所に於いて角力(正午十二時)相営み候条比段広告候也大正元年十二月九
牛の塔修繕工事委員
落成式の案内は平戸の松浦家家扶「神保氏」にも送付してたが12月10日の日付で公務多忙で出席できない旨の返事がきていた。
12月20日に牛の塔工事費報告書と牛の塔の写真を平戸を通じて東京柳原の厚公宅に送っている。
松浦厚公(鸞洲)は当時、貴族議員の職にあったが、茶道石州流鎮信派の家元でもあり、又高名な漢詩人、書道家でもあったので、この「牛の塔」工事の記念として自ら詠んだ漢詩を書にして工事中の6月18日に送付していた。
下の写真2枚が塔内に建てられている松浦厚公の揮毫の玉吟の碑である。
玉吟碑
『空を眺めれば雁が斜めに船瀬の上あたりを横切西の方帰っている牛の塔は秋天を仰いで立っている祖先定公が残した業績は動物までが知っている建武元年に出来たこの牛の塔を後世まで長く伝えたい』(浄善寺第三十世 藤盛傳訳)
屋代内左側に松浦厚公の下賜金の金額の碑と玉吟石碑があり石質が良いのか今でも判読できるが右側の石碑にはおそらく町内の寄付者芳名が刻まれていのだろうが石質が砂岩の為剥離して判読できない。
屋代正面
左側
右側
計画から完成までの工程
明治45年02月19日 牛の塔設計図を中野氏作送付
明治45年02月26日 松浦定公従三位贈られる
明治45年03月22日 請願書・工事設計書等を厚公宛で送付
明治45年04月08日 再考の要請が伯爵御令扶より来る
明治45年04月17日 再度嘆願書・工事設計書等を伯爵御令扶宛てに送付
明治45年06月01日 竣工式
明治45年06月18日 牛の塔記念碑銘及び揮毫送付
大正01年12月10日 落成式
この「牛の塔」建設に至った経緯から完成までの記録を当時の浄善寺住職が後世に遺すため詳細に書き遺しているので紹介する。
牛 之 塔 保 存 記 録 (浄善寺記録)(龍燈 4号39p~43p)
『笛吹村中村郷船瀬浜牛之元塔は旧藩主松浦家の祖先即ち南朝の忠臣地頭肥前守源定公の創建し給う所にて其の由来を遡ぬるに公當島の斥鹵を開拓し水田を作るや多々牛の力に頼る當時牛ノ之に斃るヽ者亦少からず公之を悼み大乗妙蓮經一字一石を奉納し給える霊跡なりされば藩政の頃は例年十二月初丑の日厳なる法莚を開き當寺累代其會事を奉行す然るに癈藩と共に比の厳儀癈し干古の芳躅 世俗漸く忘れんとす當寺幸に深縁の存するあり歴祖篤く公の偉徳を仰慕し後世児孫縁曰を記せず法饗を怠らんか冥罰空しからざるものなり遺誡 す故に法資克つ旨を継き儀禮微なりと雖謝徳の至誠を致す誦 経 回向古例に則り今に怠ることなし嗚呼公の義烈千載の下凛呼として輝き徳澤永く蒼生 を潤す宜なり後人其威霊を祀るや明治四十五年二月二十六日従三位を贈らる比の時に方り公の往時を追憶し欽仰 の念轉切にして意を其遺跡牛之元塔に致すの有志少なしとせず外圍をすに石垣を以ってするも上蓋既に朽損んで風雨波浪の洒らすに任せ碑面消磨し記銘殆と読む能はざらしむるに頻す笛吹村梶野英盛君夙に之を慨歎し保存工事を企画の素思いあり比の好機に際會し意を決して當時笛吹村長中山彦四郎君及び小田傳治兵衛君尼崎忠兵君等に胥 りて画策し三村有志の賛同を得柳村長中松太郎君前方村近藤爲門君と共に發企人として工事を主官し明治四十五年六月一日工を起す茲に至り旧藩主公は巨額の金員を下賜し給いて比事業を助け給ひ島民亦進んで資財を寄す善願既に應あり堅窂にして荘厳なる石造りの祠宇日を経て成る大正元年十二月十日竣工の式を擧げ厳肅なる慶讃法要を勤修し奉れり而して中絶せる例年の典禮をも自今之を再興し船瀬の濱頭英風高く扇ぎ慈雲衆庶 に普子 からしむ噫呼比願比行永劫に祉 し事跡永く後人を照 鑑 す不肖宿縁なる哉當寺を董し比の美擧あるに遭ひ感銘措く能はす是の記を作り工事の概要を記録し後昆に資す見ん者粗畧 の看をなすことなくば幸なり』于時大正二年一月二十一日端午山浄善寺第三十世現住 藤 盛 傳 (誌)
簡単に訳してみると。
笛吹中村郷船瀬の「牛の元塔」は旧藩主松浦家の祖先、即ち南朝の忠義の家臣,、地頭肥前守源定公が創建いたしました所であって、其の由来をたずねると公、当島の塩気を含んでいて作物のできない土地を開拓して水田を作た時、多くの牛の力に頼ったので当時牛が工事中たおれて死んだ牛も又少なくない。
公之を悼んで大乗妙連経一字一石を奉納し給へた霊の跡である。
それ故、藩政の頃は、例年十二月初丑の日はおごそかな法莚を開き、当寺代々其の行事を担当し執行してきた。しかし廃藩と共に、このおごそかな儀式も廃止され、この大昔からの尊い行事は世の中からしだいに忘れられかけたいたが、当寺は幸いにして公とは深い縁がある寺で先祖代々丁重に公の偉徳を仰ぎ慕い、後世の子孫がこの特別の縁があるこの供養を怠り、客をもてなして「牛の塔」まつることを怠ったなら神仏の罰がありますと教えさとして遺しておかれたので、それ故この法要の趣旨を受け継ぎ、儀礼が小規模になっても謝徳のまごころ持って声をあげて経を読み、回向をして昔の慣例に従い今でも怠ったことがない。
あぁ-公の義を守る心の堅いことは長い年月、りりしく勇ましく輝き、徳のめぐみは永く人々を潤しているところである。後世の人その威力ある神霊を祀っていたが、明治四十五年二月二十六日従三位贈られる。
この時にあたり公の往時を追憶し、仰ぎ慕いする思いが一層強くなり、其の思いが転じて心をこめて気持ちを遺跡「牛の塔」によせる志の人々が少なくなかった。
外囲いをするに石垣を以てするも、上蓋は朽損じてしまって風雨波浪が晒すに任せて、碑面は消磨し記銘殆ど読むことができなくなってきた。笛吹村梶野英盛君は早くからこれを憂い嘆き保存工事の企画の素案の考へがあり、此の好機に、たまたま出会ったことに決断して、当時笛吹村長中山彦四郎君及び小田傳治兵衛君、尼崎忠兵衛君などに相談し計画を立て、三村有志の賛同を得て、柳村長中松太郎君、前方村長近藤為門君と共に発起人として工事を主管し、明治四十五年六月一日に起工式した。
ここに至り旧藩主公は巨額の金額をくだし給いてこの事業を助け給い、島民も又進んで資財を寄進した。この島民の善い願は既にかない堅牢にして荘厳なる石造りの屋代が長い日数をかけて完成した。
大正元年十二月十日竣工の式を挙げ、厳粛なる慶讃法要が挙行された。そうして途中絶えていた例年の儀式もこの後これを再興、船瀬の浜の突堤にすぐれた徳風が高く舞い上がり、高貴な人、庶民に広くゆきわたっている。
あぁ-この願い、この行いが何時までも幸いし、この法要の後、永く後の世の人を見守ってくれるであろう。前世から因縁のある当寺を管理するものとして、この歴史的価値ある法要に遭遇し感銘せずにはいられずこの記録簿を作り工事の概要を記録し子孫の仲間の助けとなるようにする。
これを読む人ははおろそかに看ることがないようにしていただければ幸いです。
という内容であろうか。
工 事 の 概 要
一 祠宇内宝碑の前両側に旧領主従伯爵三位伯爵松浦厚公の玉吟御揮毫及び寄付者の芳名、彫刻せし碑を立てて工事の記念とす
因に記す該御揮毫は梶野家に軸物として保存せらる。
一 該工事に要せし夫役は笛吹中村郷民の寄附に係る
一 慶讃式の餘興準備及び當日の夫役をも中村郷にて受負す
一 餘興には相撲を催し近年稀なる賑をなす
一 該工事に係る諸費の収支左記決算書の如し
決 算 書
※見やすいように貸借表に作り変へた
収入の部 |
金 額 |
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支出の部 |
金 額 |
内 訳 |
円銭厘 |
内 訳 |
円銭厘 |
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牛塔修繕寄付人名 |
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請負工事費 |
242,500 |
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従三位伯爵松浦厚公 |
150,000 |
碑石四本代 但台石共 |
50,000 |
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笛 吹 村 |
40,000 |
碑銘刻請負賃 |
30,000 |
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合資会社小値賀鮑集所 |
20,000 |
慶讃式及び余興来客賄費 |
82,150 |
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笛吹郷在部 |
10,000 |
雑費 |
22,850 |
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小値賀魚市場 |
10,000 |
残工事費 |
1,000 |
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新町漁業団 |
8,000 |
碑石五島石追加分 |
2,000 |
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九十九銀行小値賀支店 |
5,000 |
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小値賀沃度合資会社 |
5,000 |
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小田傳治兵衛 |
5,000 |
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小西常蔵 |
5,000 |
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大浦郷 |
4,000 |
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小西八百吉 |
4,000 |
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大島郷 |
3,000 |
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藪呂木郷 |
3,000 |
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黒島郷 |
3,000 |
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有志寄付者 3000×24名 |
72,000 |
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前方村 |
14,000 |
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相津觸 |
7,000 |
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後目觸 |
7,000 |
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牛渡觸 |
4,500 |
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前目觸 |
4,500 |
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唐見崎 |
3,000 |
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柳村 |
18,000 |
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松本甚吾 |
5,000 |
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柳郷 |
3,000 |
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濱津郷 |
3,000 |
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柳村士族社 |
3,000 |
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柳村青年会 |
3,000 |
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樽料 |
8,500 |
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中村郷人夫 350人 |
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総収入合計 |
430,500 |
総支出合計 |
430,500 |
収支決算書は発起人 梶野英盛君 中山彦四郎君 小田傳治兵衛君 尼崎忠兵衛君 名を以て報告あり
以下が牛の塔保存記録の内容であるが貸借勘定で貸方の支出の方が3円不足するので原本の領収書関係を調べてみたら転記に誤りがあったようなので緑字で書き入れて合わせております。
浄善寺
昭和30年代牛の塔祭り
平成21年牛の塔祭り
以上で「牛の塔修繕」の話は終わりですが
現在、牛の塔は献堂以来、早100年が経過しているがその間、牛の塔界隈は道路拡張、海岸線の開発、船瀬港の拡張工事、海流の変化による周辺海岸の砂の流失等、当時の風景とは様変わりしている。
牛の塔の祠も自然風化や海からの潮波、風雨に晒されて天井板石の接合面のセメントは剥がれて青空が見え、。天川コンク-リ-トは所々剥げ落ち、階段の砂岩の足留石は剥離して細り、参道のコンクリ-トの表面はジャリが露出していて、とこどころ陥没していて歩き難くくなっている。
今、改修工事をしなければこの状態が長く続くと寛永元年の絵図のようにな状態に後戻りするのではないかと危惧している。
厚公に請願書で下賜金をお願いした時、永久保存して定公の功績、徳を後世まで伝へると約束したからには小値賀島民としてそれを守っていかなければならない義務があるような気がしてならない。
現在、国の減反政策で二.三〇年前のように新田に家族総出の田植へや、黄金の稲穂が新田を覆い尽くす光景は見ることはできず。蘆や雑草が年々生茂り、六七〇年前、定公が新田開発をした当時の隆盛の面影はない、それと共に定公に対する大恩の気持ちも希薄となり今では、定公の名前や「牛の塔」の由縁さえ知らない島民も多くいる。
しかし時代や生活様式が変化がしても小値賀島民である限り「定公」や「牛の塔」は自分の御先祖様と同様、尊敬の念を忘れないでいただきたいものである。
温故知新ではありますが、戦前、「定公」を熱心に研究されて、その偉業を島民に啓蒙した人物がおられますので、その方の研究の一端をお披露目してこの話の結びとします。
町内県道笛吹前方線の中村と新田橋の中間付近地点、膳所城に右折れする丘の上に四方を石垣組んで一段と高くした場所に源定公頌徳 碑と深く彫られた自然石の細長い大きな石が建っている。
その横に加工された石に定公の功績を称えた碑が並んで立っている。この頌徳碑は元々番岳の頂上にあった忠魂碑を現在の大きいのに建て替えた(昭和十五年)のでリサイクル利用したものだが、それでもかなり大きい頌徳碑である。
この頌徳碑を建てるのに当たり当時の小値賀町の初代町長川口恵吉郎が町民に定公の功績と啓蒙運動の経過などを纏めた。
「松浦定公を偲ぶ」(A5判ガリバン刷りで7枚綴り)の冊子があるので内容を紹介してみます。
(因みに川口町長は昭和十四年から五代目の小値賀村長になっているが昭和十八年小値賀が村から町に変更になり初代小値賀町長となる。)
松浦定公を偲ぶ
公は旧平戸藩主松浦家の祖となり建武の中興に勤皇の旗挙げをなし各地に転戦偉功を奏し地頭肥前守に任じられた。里では建武元年小値賀に水田を開き牛の塔を建てられた事が公の正史に残る。公の晩年は消息詳かならずとあり、薨去の時さえ不明となっている
公は明治十三年平戸亀岡神社に合祀され同四十五年従三位に贈位された。之は建武の忠臣として松浦家に於いて申請された事は勿論である。
建武の中興は成りたるも尊氏の背反に官軍振はず天皇は幽せられ世は尊氏の専横時代となり各地の諸将尊氏の傘下に走るもの多かりきしに扚(手をさっとあげて打ちかかる)らず。公は断じて節を變せず
逆臣尊氏の禄を食まず。地頭肥前守の栄職を惜しげもなく振り捨てた。晩年の公は窃かに領土小値賀島に隠遁 (世事をのがれて隠れること)して再挙の機運を狙いながら只管郷土の開発に専念されたものと断定する事が出来る。
公は郷土に孤忠(ただ一人つくす忠義)を護る二十年。大政翼賛臣道実践(戦前結成された国民統制組織戦時体制の組織))の日本精神も食糧増産の実行も既に六百年前の公は実践躬行(貴地で言う通りを、自ら実際に行うこと)の範を示されている。
今公の事蹟を偲び之を追想するは、公は将に郷土創造の神の如く自ら崇敬と感謝の念湧き起り六百年来里人は牛の塔祭りの行事を行いながら公を忘れたる如きは本末顚倒の感なきを得ず。爰に公の顕彰運動(功績などを世間にしらせ、表彰すること)を郷土に展開せんと欲し調査研究に着手したのであるが吾々の顕彰運動の目的とする所は今単に戦争勝抜きの運動に止めず之を以って郷土の指導精神となし恒久に郷土の精神昂揚に資したいと云うのが畢生(一生涯)念願である。
爰に運動展開の経過と事蹟の大要に付中間報告となし御諒承を乞はん欲す
運 動 展 開 の 経 過
一 顕彰運動の主体
「大政翼賛会小値賀町支部」
町常務委員会の協議を経て、十八年五月の定例町常会に提案可決、一般常会に報告
二 運動の方法
(イ) 有志者を以って史談会を組織し居れり、主として公と郷土の縁りある事蹟の調査研究を眼目とす。
(ロ) 建武中興誠忠に関しては松浦家の記録其の他資料に拠らんとす。
(ハ) 事蹟調査に依り目下記録編纂中にて該記録完成の上一般町内及関係方面へ浸透の方法を講し併せて学校に於いて児童の読物をも作る事に計画 あり。
(ニ) 報告資料完成を俟って部々県翼賛会支部の応援を乞う事
三 顕彰案(研究中)
(イ) 城跡約一丁歩の土地を買収して城跡を保存す。
(ロ) 城内既存の雑社新田大明神に公を合祀し相当社格に昇格を申請する事。
此の場合社名を改め、公を主祭神とする希望。
(ハ) 之に要する基金は寄付に依る。
但し土地買収以外戦時中は一切の工事を延期し基金は戦時貯蓄の国策に添う事
四 事蹟の大要
調査に依り考察を新たにする点も多く従来晩年の消息詳かならずとされていた公の事蹟が着々と小値賀に挙がり公の晩年と 小値賀の縁りを益 々深からしむるものと思う。
(イ) 小値賀の沿岸と公
小値賀島は往古大近小近の二島であったが公の新田開拓が両島の中間であって自然一島を造り小値賀島と命名されたのも 公である。
(ロ) 新田と牛の塔
開拓された新田は約二十丁歩建武元年の完成である此の工事に牛の力を用いる為、斃めれたるもの尠からず、公は之を悼 み「大乗妙典の碑」 を船瀬の浜に建つ、里人之を牛の塔と云う
(ハ) 水田の利用
新たに此の新田に二毛作の工事計画を目論みつつあるが大体に十丁歩位の可能性がある。六百年前の公の遺業を継ぐ意味 と将又政府 の食糧増産奨励に呼応し一億敢闘の線に沿いたいものと思う
(ニ) 公と水産業
公が領土内に産する豊富なる魚族や海草類の製造輸出にも重きを置かれた事は五島七浦を占有して塩釜を築き制塩の事業 を起こされてい る。塩は日常生活の必需品であるが公は特に之と漁塩の制を稱した記録がある。
漁獲物の大量塩蔵輸出用であったと断定さる、又重要水産の鮑取りに裸海士の起こりもその頃となっている。
水産業の輸出貿易に依り当地方に於ける経済の中心となった事も領土善政の賜ものである。
五 遺 物
公の祈願所であった古刹浄善寺保存
(イ) 荒神御供米の自署目録一通
(ロ) 佛鏡及佛鏡台(台は公自作の彫刻)
(ハ) 佛 体二点 (内小の一点は公の冑内に納めたものと云う伝説あり)
六 薨去の時と法名(従来不明とされていたが浄善寺の旧記に記録がある)
延文三年十二月十八日寂(薨去の時)
至徳院殿鬼山大居士(若宮大明神是也)とある
七 城跡と墳墓
島の中央中村の城山が居城であった。面積約一丁歩歴然たる城址が残る。
伝説に残る十二の有力なる墓地がある。此の調査は未済であるが由緒ある殿様の墓と伝えられている。
八 建武中興の遺品
後醍醐天皇恩賜の御衣(約二寸角の錦、包紙にきん里様御衣きれとあり)
藤房郷の短冊 一点 (裏面に花山院藤房とあり)
右の二点は当地の某旧家に保存されていたものを貴重なる公の遺品と断定すに至りたるものにて、御衣のきれは同氏の好意に依り史談会に譲渡を受け町役場に保管す。(後浄善寺に預ける)
特に御醍醐天皇の恩賜の御衣が偶然にも六百年後の今日吾が郷土に現れたる事はその由緒を拝察し奉り大東亜戦争の決戦下一億敢闘が叫ばるる、秋、獨り吾が郷土民に対する警鐘として独専すべきものであるまいと迠考えを及ぼす次第である。
昭和十八年八月
川口恵吉郎
と書き綴っている。
故川口町長
川口町長は前方後目出身であったが町長離任後は奥さんの里、嬉野に移り住んでお茶の販売業を営み昭和30年代、小値賀にも時々お茶の卸販売にお見へになっていた。この頌徳碑が完成したのは昭和二十二年一〇月の日付が刻まれているので川口町長が離任してから建設されたことになる川口町長時代は、丁度戦時下で計画はしたが資金に余裕がなく戦後一段落してから建てられたのである。
そしてこの頌徳碑完成に対して川口町長は次の様に感謝の手紙を送っている。
『祖先や郷土の変遷を知りたいのは人情である。郷土の研究は郷土愛の精神を涵養 (自然に水がしみこむように徐々に養い育てる)し、精神生活の上に、又、郷土発展の上に裨益 (たすけとなること)あるものを信ずるものある。
私は、若年の頃より郷土を離れ勝ちで、郷土の知識に乏しきものである。村長在職の余暇郷土の偉人源定(みなもとのさだむ)公の研究と顕彰運動を企て、幾文でもお役に立てばと念願するに至ったのである』