日本軍台湾自活隊




四年前の夏、台湾の高雄を妻と旅行した。台湾には何度か旅したが台北近郊ばかりで台南、高雄方面には行ったことがなかったがこ年の春、台北、高雄間に新幹線が開通して九〇分で行けるようになったので思い立った。

そして私が高雄行を思い立ったのにはもう一つ理由があった。それは父がそこで戦中戦後を挟んで十三ヶ月間暮らしたいた処であり、子供の頃高雄の街並みが綺麗かったことや、台湾バナナが美味かった話等を度々聞かされていたので大人になったら何時か訪ねて見たいと思っていた。

その父も三十三回忌が済み、父との縁や思い出が私の記憶の中からだんだん薄らいでいくので、高雄での父の足跡を探して私の生まれる以前の父の姿を垣間見ようと九月五日から四泊の予定で訪ねて見た。


幸運にも父の高雄での軍隊生活を示す手掛かりが僅かに遺品としてにあったのでそれで下調べをした。

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父が台湾出征した時の状況をみてみると


     陸軍中尉の任命書


当時、父は陸軍中尉であったが、職業軍人や現役でなく予備役の年齢も過ぎた後備役であった。

父は昭和十四年中国に出征して二年の兵役から復員し、元の教職に就いて当時、青年学校の校長をしていたが戦局厳しい中、父に二度目の召集令状がきた。

普通、勝戦であるならば召集されるはずのない補欠のそのまた補欠の45歳の老兵であるので、当時の日本がいかに負け戦していたかが伺い知れる。














二度目の召集から召集解除までの軍歴を見てみると


 当時の教え子達から送られた武運長久旗

  軍  歴

昭和二十年一月二三日  臨時召集により輜重兵第五十六連隊補充隊に入隊
昭和二十年一月二四日  第十方面軍司令部に転属
昭和二十年一月三一日  第五百特設警備患者輸送隊付
昭和二十年二月 二日  福岡雁の巣発
   同        台湾着
昭和二十年二月 五日  
昭和二一年三月一三日  内地帰還のため高雄港出帆
昭和二一年三月二十日  大竹港上陸
   同     日  召集解除となっている




となっている。父が所属している古巣五十六連隊の司令部は、当時ビルマ方面軍直轄部隊としてビルマのケスピスの前線基地にいるのでその部隊に帰属するのが当然であるが、当時の戦局や実際に南方で終戦を迎へた人達の話を総合してみると。

召集はしたものの、南方に運ぶ輸送船が沈没されて兵隊を本隊まで運ぶ手段が途絶へていたので、第十方面軍(台湾軍)に転属して将校を日本から送り込み兵隊は現地在住の日本人や台湾人から構成した俄部隊を編成していたのである。

   雁ノ巣飛行場                    現在の雁ノ巣飛行場跡
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このような戦況の中、父も十方面軍司令部に転属し第五百特設警備輸送隊長として福岡の雁ノ巣から双発の飛行機で台湾の松山空港に到着している。

父が搭乗した福岡の雁ノ巣飛行場は現在の福岡空港(板付)の前身で昭和十一年(1936年)開港された当時、東洋一の国際空港で台湾、大陸、朝鮮半島に路線があり旅客機で賑やかだったが戦中は日本軍が利用し戦後は米軍に摂取され朝鮮動乱で利用されたそうである。

















着任後の軍隊生活



父は中国上海では第一輸送監視隊の任務に就いていたが当地では特設警備患者輸送隊の任務である。この任務がどのような仕事であったのかはっきりとは解らないがこの任務命令から判断するとおそらく当時、第十方面軍の五十師団が潮州にあり、歩兵三〇一・三〇二の連隊を配備し、鳳山には三〇三連隊が配備されていた。
昭和十九年に台湾にも徴兵令が施行され、二万二千余人の台湾人が招集されたそうである


当時の戦局は米軍がフイリッピンを陥落した後、次の攻撃目標は台湾であろうと第十方面軍はこの鳳山旗山近郊に防衛陣地を築き、地下壕を堀り、地下を要塞化して大量武器弾薬や食糧、医薬品等を貯蔵し、野戦病院まで設けて持久戦に備えたそうである。

この鳳山旗山鎮の本土決戦軍三〇三歩兵連隊には約三千人弱の兵隊が駐屯していたそうである。父の第一三八五〇部隊(特設患者輸送隊)も同所にあった。
十方面軍直轄の高雄病院が高雄に設置されていたので旗山の野戦病院から疾病や負傷した兵隊を高雄病院まで輸送する輸卒、衛星兵の護衛監督をしていたのではないかと思われる。

父の軍歴では昭和二十年二月五日第五百特設警備患者輸送隊長として鳳山部隊着となっているがその時もらった隊長章のバッチが遺品の中にあります。
ここで不思議に思うのは隊長は軍隊の階級から云うと大尉でなければ任官されないそうですが父は中尉の任官で隊長として出征しているのです。生前父は俺は最後の階級は大尉だったと常々言っていたので負け戦の混乱期で任官なしにあわただしく戦地に赴き敗戦となってまぼろしの大尉で終わったのでしょう。
着任の日から八月十五日の終戦まで半年間、任務には就いていたが何処に住んでいたのか長い間解らなかった。
しかし偶然にも父のアルバム帳に二枚の絵葉書が貼ってあり剥いで見たら当時の父の住所が書かれていた。

下の二枚の絵葉書がそうである。
上は、昭和二一年六月三十日、下は昭和二一年八月一四日、終戦前日の消印があった。

下の絵葉書の写真には旗山神社とあるが現在はもちろ廃神になっていて、その跡は最近知ったのだが中山公園となって市民の憩いの場所となっている。その公園の中には日本軍の駐軍記念碑も建てられている。











上の葉書で差出人の住所や葉書の内容から農業専修学校の教師をしていた方のようですが、父も大正九年二〇歳の時、県立諫早農業学校を卒業した農業の専門家だったので農業のことで現地で意気投合したのか、または内地で以前からの知り合いだったのかも知れない。

下の葉書は終戦前日に届いて受け取っているのでこの場所で終戦となっている。
葉書の内容から第一三八五〇部隊から鳳山の何所かの部隊に転属になったのだろう。






当時の台湾鉄道網


台湾は日本の九州位の広さがあり、高雄から鳳山間では一駅で旗山までは鳳山から支線を乗り継いで六駅目であり隣の屏東県の潮州までは高雄から五駅目で現在の電車で四十五分位の距離だ




それでは終戦から復員するまでの足取りを調べてみると。
敗戦となり父が所属していた第一三八五〇部隊はこの五十師団に編入されて昭和二一年三月まで七ヶ月間、自活隊を編成して畑を耕し自給自足の生活をしていた。
話は変わるが、何かの本で読んだが捕虜は戦争中、敵軍に捕まることで、抑留は戦後敵軍に拘束されることだそうだが、同じ終戦を迎へた中国の軍人はシベリヤに強制収容されて過酷労働を長期間強いられた抑留者が沢山いる中で、ここ台湾では抑留や台湾人のいじめに合うことなく復員するまで台湾の土地で食糧補給の為、農作物を作って自活していたので幸運であったが、この事は戦勝国の国民党政府の蒋介石や指導者達の温情と明治二十八年、日清戦争後日本の統治下に入り日本の教育が行き届き、後述するが李さんのような親日派が多くいた為だろう思った。



第五十師団司令部自活隊 昭和二十一年二月七日
父が編入された当時の自活隊名簿がある。表紙には昭和二十一年二月一日第五十師団司令部自活隊人名簿(本部員全員、各隊下士官以上)と書かれ二枚目からはガリ版刷りで本籍、現住所、氏名が書かれていて五九名の名前がある。

出身地は青森、秋田、山梨、茨城、静岡、京都、広島、香川、鹿児島等、まちまちである。これは父の原隊のように九州で編制されたら九州出身、四国なら四国出身というわけには行かず台湾編制部隊なのでチャポンになってしまったのだ。長崎県出身は二人だけで、それも父と同じ五島列島で下五島、岐宿の人だったが同じ五島でも距離があるので父がこの人とその後親交があったかどうかはわからない

第五十師団司令部自活隊となっているので、云わば、師団の中枢の士官、下士官だけなので当時高雄周辺に駐屯していた沢山の兵卒、兵隊の敗戦から復員までの様子はこれでは伺い知れないが、同様に各地で自活隊を編成したのではないだろうか。この名簿に軍階級は記入されていないが三番目に父の名前がある。終戦となっても解除までは、軍律が守られ階級順になっていたのだろう。


    




鳳山で輸送隊の任務に就いていた頃、父の部隊に配属されて来た台湾出身の軍医が戦後二十四年ぶりに五島列島の小値賀まで、わざわざ父を尋ねてきた時の父の手記


「 私は昭和十九年再度の召集を受けて台湾高尾県下の鳳山に特種勤務の輸送隊としての任務についた。やがて軍医が配属されることとなり私の隊にも佐々木喜六という台湾人の軍医が見習仕官で来るようなった。久留米医専出身で佐々木姓は奥さんの姓を名乗っていたのだった。当時、私の隊は、幹部は日本人であったが普通の兵の多くは台湾人の召集兵であった。

召集兵の多くは日本語をよく解せない者が多く居たが軍医は良く両者の間に立って誠心誠意努力されていたが終戦となって現地除隊し私は五〇師団に編入され潮州の田舎で自活隊として土地を開墾し甘藷や野菜作っていたが幸い二一年四月復員することが出来た。
昭和四十年頃だっただろうか当地の開業医(財前医院)の方から久留米医大の卒業名簿同窓生で、李六という台湾人が居たことを聞き名簿によって住所を知り得て、早速便りを出したら折り返し返事が来て健在を喜び合った。

以来年に一、二度、の便りに是非台湾に来るようにと要請せられて居た。今年の年賀に健康を害してとても訪台は出来そうにないと申してやったらその中、自分が伺う旨の便りがあった、然しまさか台湾からこのような小さな島などにこないだろうと思って居たが、五月三日午後、突然李さん夫妻の訪問を受けて、先声聴きしも感激に声が振るえた。
  当時の写真

二人は手を取り合って肩を抱いて無事を喜び、実に二十四年ぶりの再会だったのである。私が健康でないことを知り是非一度逢わねばと思い立ち、日本語に自信がないので奥さん同伴で三十六年ぶりの日本への旅であった。
はるばると地図にもない長崎県の西海に浮かぶ小島を三日間掛かって尋ねて来たのだった。たどたどしい日本語で「逢えて嬉しい、嬉しい」と、私の手を握りしめて喜んだ。

人情低の如く薄れた今日、異国の友のこの友情と誠心に胸を打たれて私はしばし言葉が出なかった。李さんは私が、まさか、こんな船便で五時間もかかる小島に住んで居ようとは思っていなかつたにちがいない。

李さんは目下台南県で大きな病院の病院長でありその他医師会常任理事などの役職に就いて多忙な方であった、まさか五時間もかかる船旅のあることなど予期していなかったので時化ない中にと、明朝の船で名残を惜しみながら帰って行かれた。」

父はこの頃から前立腺ガンを病み病床に臥していて動ける状態ではなかった。この時はガンとは気が付かず軍隊時代、中国で輜重の仕事中、馬車で腰を轢かれて数日寝込んだことがあり、復員してからも時々痛むので持病の腰痛だろうと思い温泉治療や、外科治療に出掛けていたが、今回だけは長引き精密検査を受けてガンと診断され手術を受け軽作業が出来るほど回復した時もあった。しかし完治しないまま一進一退を続け発病以来一生懸命看護してきた母も急逝した。最後の二年間は寝たきりの状態であった。


この手記により当時の父の軍隊生活の様子が少し分かってきた。
父が赴いた鳳山部隊の事を調べていたら明和会非公式のホームペ―ジ(バンドラの壷)より下記の文章が目を凍らせた
「台湾の高雄中学校一年生として昭和二十年五月から学徒動員、場所は台湾・高雄州、鳳山の旧陸軍糧秣倉庫警備隊岸部隊に配属されました。その時の隊長は陸軍中尉で、その他十名程の下士官と兵卒が我々学徒兵約四百名を統轄していた。
我々が敗戦を知ったのは八月十七日の夜中で全員兵舎の前に非常召集整列して、隊長から「戦争は終わった」と挨拶があり、全員が涙ながらに「君が代」と「海ゆかば」を斉唱した時に敗けたと感じた。 台湾では物資が豊富で、浮かぶ航空母艦と云われるくらい飛行場が十数ヶ所もあり、飛行機も新兵器もあったので全く意外だった。それから毎日、糧秣倉庫の整理、片付けで、復員が十月末、日本に引揚、日本に引揚げたのは昭和二一年三月たった。」


父も鳳山ではこのような状況ではなかったかと想像してみた。


日本に帰還

父の記録では昭和二十一年三月十三日、帰還のため高雄港出帆昭和二十一年三月二〇日大竹港上陸となっている。
往路は飛行機で一日足らずであったが復路は一週間の船旅であった。引き上げ港としては、私は佐世保横瀬賀浦と舞鶴港しか知らなかったので大竹港の名前は初めて知った港名だった。

調べてみると大竹港は昭和二十年十二月に大竹地方引上援護局が設けられ上陸港に指定され上陸人員は四十一万七百八十三人だったそうである。

場所は広島県安芸の宮島に渡る船の本土側の発着港である六年前に宮島に行ったがその時はここが父の再出発の第一歩の上陸地点であったなどとは知らなかった。




前置きが長くなったがそんな訳で高雄に旅することとした


    台北駅


朝八時三十分台北発の新幹線に乗った。座席は日本の新幹線よりやや硬めだったが乗心地は日本の新幹線と遜色がなく快適で定刻の十時に高雄の左営駅に着いた。

駅のタクシー乗り場で車をチャ―タ―しようとタクシー手配係りに予め行く先を何ヶ所か書いたメモを見せると、そのメモ紙を持って待機していたタクシーの運転手と交渉していたが、七時間チャ−タで四千元(日本円で一万二千円)とのこだ、その金額が高いか安いか解らないが乗車時間から判断して相場だろうと思い乗り込んだ。

台湾人の運転手は殆んど片言の英語も通じないので、漢字の筆談でやり取りをするのであるが不便は感じず漢字圏の有難さをこの時ほど身にしみて感じたことはなかった。
メモ書きはこちらの判断で行く先を左営駅から旗山、鳳山、高雄の順で巡ろうと計画していたが運転手はメモ書きを逆方向から順番に指すので彼に任せた。





    蓮地潭
観光も兼ねていたので運転手が心得ていたのか、高雄と左営の中間にある池に塔が建った寺、蓮地潭を訪れそれから高雄の街並みを散策して古刹のお寺にも参った。

高雄市内を抜けると父が患者輸送隊として任務していた鳳山市に入るが現在は高雄市の新興住宅街として住宅やビルが続いて高雄市との区別がつかない。
ここにも古いお寺があったので運転手は案内した。

筆談で話すので私達の旅の目的が理解できず観光旅行で特にお寺を巡るのが好きなんだろうと思われて、古いお寺の前に来ると車を止めて案内しようするので手と首を左右に振ってことわる。

鳳山市街の国道ををしばらく走ると人家も疎らになってきて、道路沿いには自生した椰子の木が続きその先には潮州、旗山の道路標識が目に入ってくる。

椰子の木の向こうには広い耕地が何所までも続いてこの界隈が潮州だろうと推測する。
潮州は屏東県に属し戦時中は十方面軍、第五十師団の司令部置かれていた場所である。
そして終戦から復員する四月まで自活隊を編成して約七ヵ月間、甘藷や野菜や作て自活して場所でもある。




  高雄帝廟
潮州を通り国道は旗山方向に左折れするがこの道も椰子が群生して南国ムード一杯である。

高雄市から北東へ8kmの程で旗山市内に到着するが想像以上に大きな街である。
バナナの特産地で戦前は大企業の台湾製糖があった場所でもある。

市内を一巡すると昼も過ぎていたので運転手に昼食を一緒に食べようと筆談したが、この街にあまり来たことがないのか無案内と昼時と重なった為、どの食道の前も車が止まり駐車スペ−スがないので空いた食堂を探して二十分ほど街を又うろつきながらやっと探し当てた。

店内は十人位のお客がいて家族で切り盛りしているのか、三十代の夫婦と母親らしきものが奥で忙しそうに働いていた。焼飯、野菜、豚の角煮を注文する。さすが食の台湾か空腹の為か格別美味かった。
食後、運転手が店主に手巾寮の道を尋ねていたようだが店主は詳しく手振り身振りで教えていた。運転主が厠に行くと、今度は私に電子地図帳を持ってきて現在地はここだからこう行ってと説明するが私にはお経の本より難しくジエスチャ―で運転手に話せと手を動かすと、よほど日本人の私達に興味があったのか、今度は筆談となり、
手巾寮を訪ねる訳を書いたら理解してくれたのか雨の中をわざわざ笠をさして出てきて運転手に道順を教えていた。



  旗山食堂
教えられた通り大川の橋を渡り国道を十分位走ると、停車して道路右脇のバス停の看板を運転手が指刺すのでなにげなくその方向をみると「手巾寮」と書かれていた。
遂に手巾寮の地名を探し当てた。車から降りてバス停の名前に何度も目をやり手で触ってみた。
父のアルバム帳の絵葉書からこの住所を知りへてから実に三年間経過してこの地に立っことができ、積年の思いが果たせて感無量であった。

再び車に乗ると運転手がUタ−ンの為かバス停の次の狭い路地を右折れして100メートル程行と道路の真ん中にテントが張って行き止まりとなっている。テントの中では祭壇が飾られ果物などの供物が上がっている。
拡声器からは台湾の歌謡曲が流れテントの左手には小さなお堂が祭られていた。
個人のお寺なのか家族で寺の行事の準備をしていた。今日参ったお寺は何所でも本堂の前にテントが張られ椅子が並べられ信者達が忙しいそうになにやら準備していた。

その時は気が付かなかったが日本に帰りテレビを見ていたら長崎の中国寺の宗福寺の中国盆が九月六日に行なわれた
とその模様を放映していたのであれは中国盆の準備だっことがわかつた。



      旗山の寺
運転手は車を止めて準備していた老人になにやら尋ねていた。老人は私に近づき流暢な日本語で日本軍のいた場所は知っていると話してくれた。

以心伝心とでも云ようか運転手は私達にその場所まで案内しようと思っていたのだ。
老人と今度はその息子らしい人と運転手としばらくその方向を指差しながら話していた。

その場所が理解できたのか運転手は車に乗り、私たちもその家族に頭を下げ今きた道をバックで国道に出て行くと、先の息子がバイクでヘルメットもかぶらず、ゴム草履で子供を前に乗せて付いて来た。

運転手に「俺が先導してやるからついて来い」との仕草で車を追い抜いていった。思いもよらぬ先導車付で十分程走ると左折れして舗装されてない車一台がやっと通る狭い一本道が何処までも続いた農道を走った。

先導のバイクは水溜りと、デコボコ道をうまく迂回しながら進む。車は何度か
バウンドしてその度に体が揺れ頭を打ちそうなりながら、水を跳ねのけて前へ進む、前方から車が来ても離合の場所はない。






  手巾寮バス停
道路の左右は広大な平野であるが収穫が終ったの作物はなにもなく地肌だけが見えている場所もある。
遠くに目をやると農作業の夫婦とトラックターが小さく見える。
後で考えてみるとサトウキビ畑ではなかったのだろうかと思った。

五分ほど進み平野の真ん中付近で息子がバイクを止めて全方向を指さす。

「ここが日本軍が駐屯していた場所なのだ」と言いたげに私達を見る。
もちろん、私よりずいぶん若いので彼が当時を知るわけがなく、さっきの老人からの指示だろう。

車から降りると運転手がタバコを取り出して「どうも、どうも」と男の前に出す男は一本取って火をつけ、吸いながら運転手と雑談している。
これが台湾流お礼の仕方なのだろうと思った。









  日本軍駐屯地跡

妻は何かお礼をと、自分の手提げに付けていた日本のハウステンボスで記念に買ったストラップを二点、、バイクの椅子に座ったまま降りない子供に手渡すと子供はハニカミながら受け取り手に握り締めていた。

私はしばらく平野を一望する。そこには六十年前とほぼ変わらないだろうと思われる風景が眼前に広がり、当時の軍事施設や整然と並んだ駐屯軍の軍事訓練等が容易に想像できる雰囲気である。

父もここで半年間一三八五〇部隊長として三〇三歩兵連隊約三千人の戦友と共に軍隊生活を送っていたのだった。
まさか、この旗山の日本軍の駐屯地跡に立って、この光景を眺められるとは全然予想だにしてなくて、当時の父の足跡がここまで明らかになるとは望外の喜びであった。
ここまでわざわざ案内してくださった手巾寮の青年に握手と心からの感謝の意を表して帰路についた。