日 本 軍、上 海 激 戦 の 地


下記の本昭和一五年五月二七日発行「畫文聖戦の跡」著者松村天籟、印刷所華中印書局股份有限公司、(定価金三円)出版の和綴じの古びた本である。
私の子供の頃ら我が家にありましたが、「壊れた家や廃墟となった街の風景」の絵が載っていただけなので興味がなく、父の遺品の一つとして本棚の片隅に何年も置き去りにしておりました。

父は若い頃から写真撮影が趣味で大正、昭和の戦前、教職をした時代の親族や、風景、教え子等のアルバムを沢山遺していたがその中に昭和14年から15年、約2年間召集で上海方面に赴任した頃の、中国の風景や軍隊生活等の写真も1冊のアルバムとして遺っていた。

今となっては珍しい写真もあるのですが撮影から六〇年以上も経過しているので、傷やカビで劣化して見難のもあるのでパソコンで修復可能な写真は修復しながら整理しておりますが、その中には撮影場所が解らない写真もあるので場所選定に苦慮していたが写真の場所と、この本の絵が符号する場所が記憶にあったので、久しぶりでこの本を捲りながら本の事ついても調べてみた。

この本の内容は上海近郊の戦場の跡や戦死者の墓や記念碑等を説明文入りでスケッチしている。表題の通り「聖戦の跡」です。
この絵を描いたのは松村天領は画家で当時は支那派遣軍報道部に所属していた。
この本が発刊された昭和十五年五月には父は上海の兵站司令部にいたので、其の頃この本を現地で買い求めて本を参考に戦場跡などを訪ね歩いて写真を撮ったのだろう。
この本のスケッチと父の写した写真の符合する場所を紹介してみます。
 この時の写真は日本軍関係の施設が多いので敗戦と同時に壊されたか、名前が変更になって今は現存してない場所が多々あると思われる。




これがこの本に書かれた上海近郊の古戦場跡や記念碑、の地図である

これがこの本に書かれた上海近郊の古戦場跡や記念碑、の地図である。





大  場  鎮

「上海戦線の二〇三高地」といわれた大場鎮は第二次上海事変中、最大の激戦地となった場所。 無数のクリークに守られたこの天然の要塞を陥落させるために日本軍はその兵力の八割を失った。第二次上海事変は昭和十二年八月九日、上海市で海軍陸戦隊と中国軍が衝突し十一月月まで続く空前の激戦で日本軍の戦士者九一一五名、負傷者三一二五七名、中国側の死傷者八・三万人となっている




大場鎮慰霊碑




表  忠  塔
は取り

この激戦を記念して当時の軍司令官松井大将の揮毫で表忠塔が大場鎮に建てられている。表忠塔の参道は敵の捕虜を使って造ったそうだが、旗が風に何本もなびく中を参拝者が行き交ってお祭りみたいに賑やかな光景だ。現存は取り壊されているだろう。





表忠塔






呉 淞 敵 前 上 陸

第二次上海事変の時日本軍が揚子江支流上海の入り口、黄浦江の呉淞クリーク(小運河)で守る中国軍と攻める日本軍と壮絶なる戦闘があった。
中国のトーチカから発砲する機関銃の前に日本軍の先兵が倒れ、その後にその屍を盾として続兵が進み、そしてまたその屍を盾として敵陣に進み何度かこれを繰り返し、やっと上陸に成功した。日本軍の死者は空地に廃材のように積まれ戦闘から数ヶ月経ても荼毘が間に合わない悲惨な状況であったと伝えられている。 








呉淞クリ-ク



現在の呉淞クリ-ク






呉 淞 砲 台


この砲台は上海市内を流れる黄浦江の入り口にあり。中国軍にとっては軍事上重要な砲台で、日本軍にとっては脅威の砲台であったが、昭和七年の第一次上海事変の停戦協定で備砲が破壊されていたので、第二次上海事変では使用できず日本軍にとっては好運であった。下の写真の砲台が何基か配備されていたのだろう。






呉淞砲台





江 湾 競 馬 場

この写真はアルバムに「江灣時計台」とだけ書いたが、この本の江灣競馬場遠望を見ていたら絵の中程の塔が写真の時計台のようなので競馬場だったのだろう。
この競馬場は、近郊のゴルフ場と共に、当時のブルジョア連中に馴染まれて有名だったそうだが昭和十二年九月二十六日午前十一時日本軍の一斉砲撃で破壊され時計も写真のように無残な姿となっている。






江湾時計台



加納部隊奮戦の地と戦死地

日本陸軍、加納部隊が壮絶な死闘を繰り返し戦った大場鎮の森と墓標

日本陸軍、加納部隊が壮絶な死闘を繰り返し戦った大場鎮の森と墓標

 



加納隊激戦の地


加納隊長戦士の地






廟  行  鎮

この廟行鎮での爆弾三勇士は余りにも有名な話で映画にもなった。敵の鉄條網を破壊する為、爆弾を抱いた三人の勇敢な兵士が敵陣めがけて決死の突撃をして破壊した。
それを記念して忠魂碑が建てられた。下の写真は三勇士の一人でこれ指揮した馬田軍曹の墓

 


廟行鎮忠魂碑



馬田軍曹奮戦の地



父の足跡を探して

一九九七年二月十三日から三泊四日の日程で上海・蘇州の旅に妻と出掛けた(写真内日付九四は設定間違い九七)
その時、ここだけは是非訪ねて見たい場所があった。それは父のアルバム帳に度々出てくる地名、浦東(プ-トン)とガーデンブリジと蘇州の寒山寺だ、浦東は上海黄浦江の東側に位置し中国の玄関口、国際空港があり、高いテレビ塔や近代的ビル等が立ち並んだ場所だ その浦東の官舎前で戦友達とドラムカン風呂に入っている写真がある。

    

浦東の東方明珠テレビ塔から上海市内望

   官舎前のドラムカン風呂               
ドラムカン風呂の話になるが昭和30年頃、復員していた父は公職追放で教職の道を断たれイリコ製造と日用品の小店を生業としていた。

イリコ製造小屋には作り付けの五右衛門風呂があったが、父は船の燃料用重油の空き缶でドラムカン風呂をわざわざ作り写真のスタイルで時々入浴していた。
私も父からの命令で何度か入ったが、父は「ドラム風呂はよかろうが!よかろうが! 」と云っていたが油臭くて私にはなじめなかった。

今思うと浦東で戦友達と入浴していた頃のことをしみじみ思い出しながら入浴していたのであろう。。




ガーデンブリジは上海を代表する橋で当時、流行歌にも歌われ父のアルバム帳にもアングルを変えて良く出てくる場所だ。この橋の上に立った時、五八年前、父もこの同じ場所に立っていたのだと思うと感無量で立ち去り難く、妻と何度も橋を行き交いながら写真のシヤターを押した。

            ガデン-ブリジ









時代劇に出てくる床の間の掛軸でお馴染みの「楓橋夜泊」の漢詩で有名な蘇州の寒山寺を父も訪ねていて、当時、我が家や親戚にお土産にこの掛軸を買ってきている。
今なら上海から蘇州まで高速道路で二時間位の距離だが当時はずいぶん時間が掛かったことだろう。


             寒山寺



    楓橋夜泊