名 称  感 謝 碑 
 年 代 昭和8年(1936) 
 建立者  大浦郷民
 所在地 大浦郷 

この碑は大浦へ下る旧道の松林の中に大きな火山弾を利用して建てている。感謝碑を建るに至った経緯を大浦出身の元小値賀農協組合長前田市三郎氏が小値賀新聞昭和49年4月号「碑をたずねて」の中でこう述べている。

『これは昭和10年頃農村が弊害のどん底におちいり借金の返済もできず、いくら働いても納税さへできない状態であった。そこで部落民話合い農村負債整理組合を設立することになり、村当局にお願いして、国の負債整理資金8千円を借り受け、これを各人の負債額に按分して貸付、各個人は全財産を投げ出して整理に当たったが如何とも致しがたく、各債権者一同にお集まりを願い、整理できない者には「無利息出来払い」という無理なご相談をお願いしました。ところ、債権者で財産を取り上げても仕方ないから郷民が更生するのを待っことになり、難問題の負債整理も、二ヵ年の後やっと完済し郷民一同今後に光明を見出し青年や婦人も希望に燃えこの血のにじむ思いで働いた金を、われわれの為大決断して下さった債権者のご恩を忘れぬためここに感謝碑を立てて感謝の日暮しと、この碑の前を通る時だけでも思い出し、このご恩に対し積極的に農業に努力しょう。そして約束を実行しようと、この碑を建て子孫に伝えることとしたのがこの感謝碑である。』


テキスト ボックス: 昭和八年八月一日農村負債整理法ノ實施セラ
ルルヤ同年一二月八日我大浦郷民三十五名組合
ヲ設立シ資金八千円ノ融通ヲ受ケ負債ノ過重
ヲ除カン事圖リシニ縣村各位ノ御援助ト債権者
諸氏ノ御同情ヲ得テ組合員一同光明ノ域ニ向コテ得
タリ依テ此ノ碑ヲ建テ深ク感謝ノ意ヲ表シ併テ我等
更生ノ目的ヲ達成セン事ヲ誓フト云爾
       大浦負債整理組合員一同
























 名 称 源定公頌(みなもとさだむこうしょう)(とく)()
 年 代  昭和22年11月18日)(1947)
 建立者  
 所在地 中村郷膳所城入口 

町内県道笛吹前方線の中村と新田橋の中間付近地点、膳所城に右折れする丘の上に四方を石垣組んで一段と高くした場所に源定公頌徳碑と深く彫られた自然石の細長い大きな石が建っている。  その横に加工された石に定公の功績を称えた碑が並んで立っている。この頌徳碑は元々番岳の頂上にあった忠魂碑を現在の大きいのに建て替えた(昭和十五年)のでリサイクル利用したものだが、それでもかなり大きい頌徳碑である。

これに関しては「牛の塔建設物語」に詳しく掲載していますので参考にしてください。
テキスト ボックス:  源 定 公 頌 徳 碑



テキスト ボックス: 源定公ハ松浦家ノ祖先ニシテ小値賀ニ住シ建武中興ニ    
功績アリ昔小値賀ハ上近下金ノ二島アリシガ其ノ間ヲ埋メテ
今ノ新田開拓ノ難事業ヲ完成セラル潮見明神ヤ船瀬ノ
 牛ノ塔ハ当時ノ苦難ノ跡ヲ物語ルモノデ又製塩業ヲ起コシテ
 水産交易ヲ奨励セラレル等郷土開発ノタメ其ノ功績ハ真ニ
 偉大ナリ 茲ニ其ノ徳ヲ頌センタメ郷徒相計リ之ヲ 建ツ




























 名 称  小西繁吉君效績記念之(こにしはんきちくんきくこうせききねんのれ)() 
 年 代  昭和23年6月(1948)
 建立者  
 所在地 笛吹六社神社境内 
この碑は笛吹の六社神社本殿の前に建てられた見上げるような大きな石に刻まれている。郷土誌によると明治14年(1881)笛吹に生まれ尋常小学校卒業後近衛兵の軍曹として従軍した。帰還後は佐世保市で搾乳業を営んでいたが、34歳の時帰郷して以西機船底曳業を地元漁民と共同経営をなし遠洋漁業の発展に尽力し、小値賀漁民団を結成し昭和2年小値賀町漁業組合、小値賀町産業組合の組合長に選ばれた。
一方大正4年以来町村会議員に6回当選、昭和13年には県会議員に当選して小値賀町、北松浦郡、長崎県の発展に寄与していたが昭和19年2月2日佐世保から帰る途中海難事故に遭遇して不慮の死を遂げられた享年63才でした。

テキスト ボックス: 小西繁吉君ハ小値賀ノ人ナリ小値賀ハ由来魚塩ノ利ニ富ム君少壮身ヲ沿岸漁業ニ投シ刻苦精励倦ムヲ知ラス更ニ遠洋漁業ニ及ヒ効ヲ収メテ重キヲ儕輩ノ間ニ致シ且大ニ至富ノ要訣ヲ得タリ然カモ志ハ常ニ海国日本ノ沿岸漁業ヲ整斎拡充スルニ存ジ夙に小値賀漁民団ヲ結成シテ以テ共同経営ノ範ヲ示シ之ヲ推弘シテ小値賀町産業組合ノ基礎確立ニ質シ小値賀町政ニ参シテ寄与スル処尠カラス小値賀港整備ノ如キ職トシテ君ノ尽力ニ由ル進ンデ北松浦郡漁業組合連合会長崎県漁業組合連合会ノ設立ヲ提唱シ遂ニ全国漁業協同組合連合会ノ設立トナリ各其枢要に坐シ後半世ヲ与ケテ同業団結経営共同ノ扶植ニ委ネ声明漸ク衆望ノ帰スル処旧長崎県議会議員ニ当選スルコト前後二回百事愈蔗境ニ入ラントシテ一朝不時ノ海難ニ遭逢シ津和崎水道不帰ノ客トナル実ニ昭和十九年二月二日ニシテ齢耳順左右ナリキ厳若ァ潔ノ半面赤誠情熱并セ選ルノ概アリ知ル者腕惜痛悼セサルナシ友朋故旧追慕己マス記念ノ碑ヲ建設セントシテ予ニ文ヲ徴ス乃チ君ガ閲歴ノ梗概ヲ叙シテ之ニ応ウト云爾
昭和二十三年六月
辱知森筆選                     小値賀農業会
小値賀漁民団  設立
小値賀漁業会
町浦部共生会

 





















































 名 称  柳港修築記念碑  
 年 代 昭和25年9月(1950) 
 建立者  
 所在地 柳波止場 

柳の港は漁船の停泊地と離島の納島や隣町の宇久町との連絡船の航路でもあるので小値賀でも重要な港の一つでもあ。



テキスト ボックス:         内 国費補助    四百六十万円
 総工事費      県費仝     三百二十万円
 壱千五百万円   町費仝     壱百万円
        訳 経費及び寄付金 六百二十万円



























 名 称 電燈施設記念碑 
 年 代 昭和25年8月1日(1950) 
 建立者  
 所在地 納島波止場 

郷土誌によると小値賀に初めて電灯が灯されたのは大正8年1月に笛吹地区の430戸だけに送電されたそうである。昭和19年に農協が送電するようになってから昭和22年2月22日に離島を除く本島全部落にやっと電気が点灯されたるようになったので同じ島内に電気が行き渡るまで30年かかったことに驚いた。しかも今日のように24時間送電されているわけでなく朝6時から夜9時までであったが昭和31年に九州電力が農協に代わって送電するようになってから四六時中電気が来るようになって今日のように生活が便利になった。この時住民は納島の碑文と同様に欣喜雀躍して大いに喜んだであろ。


テキスト ボックス: 世の文化に遠く離れし一寒村納島郷に
文化の施設をもたらし人、佐藤米一氏は佐世
保の住人にして昭和二十二年十月納島郷の地先
海面に大敷網を営まんとして此の里に来り
しも、細き燈の下、貧しき里人等に文化の光
りを恵まんと時の小値賀町議会議員浜元竹市氏
に事を議りて電燈施設を企図せり、時恰も大
東亜戦直後の物資は極めて入手困難な
る中に海底電線並びその他の資材獲得に自ら
滅私奔走し反面浜元氏は部落与論の統一に
努め遂に委員を設置して自ら委員長となり直ちに
長岡、森岡委員と共に佐世保に至り
佐藤氏と協力あらゆる艱離を克服して資
材獲得に成功せり斯くて昭和二十三年一月二
十六日宿望達せられて里人は欣喜雀
躍、佐藤氏の切を称えてやまず、而して氏の恩
恵をとこしえに子孫に伝えむと若人議りて
茲に記念の碑建立す
昭和二十五年八月一日
   納島郷青年支部

 名 称  自力(じりき)更生(こうせい)()
 年 代 昭和25年 9月(1950)
 建立者  
 所在地  大島海岸


大島港から民家に行く途中の左側に基礎を多数の火山弾で固めた上に細長い火山弾が建っている。梶野貫三氏が揮豪した力強い字体で「自力更生」と刻まれた碑がある。

裏面には大島の属島宇々島で自力更生をするに至った経緯が刻まれている
享保年間(1716〜1736年)の大飢饉に際し、島中協議の結果最も生活に困窮している者一戸〜二戸を属島宇々島に移住させて生活の立て直しをさせることに決めた。これが自力更生の島の始まりと伝えられている。この互助制度は昭和三〇年頃まで続けられたが出稼ぎで現金収入が容易になるなど社会情勢の変化により自然消滅してしまった。

この宇々島に関して民俗学者宮本常一先生が「私の日本地図・五島列島」の著書の中で書いているので紹介します。(先生は三回来島している昭和27年・36年・38年です)

『この島(大島)にはマスコミにさわぎたてられているものがもう一つある。属島の宇々島である。大島のすぐ東にあって、大声でよべば声はとどく。大島はまずしい島で、その上島の中にはこれというほどの財産をもった者もない。助けあうといっても限界がある。そこで生活のたたなくなった者をこの宇々島にやることにした。
今から240年ほどまえの飢饉に食いかねた家二戸を、牧場であったこの島の西半分へ移住させて畑を耕作させた。この島におれば村の夫役もかからず、税もおさめるない、磯のものは自由にとってよい。その上金をつかうこともない。おのずから財産もできる。財産ができれば親島へかえってくることにした。はじめてのこころみが成功したので、その後次々にこの島へわたるものがあった。しかし二戸住んだのでは耕地が少なすぎるので、後には一戸になった。五年でかえるものもあれば十年いるものもある。240年の間には財産のあるものを除いてはたいてこの島ですごした経験もつようになった。』




テキスト ボックス: 史籍語ラズモ千古ノ石器現ル自治制ノ昔ヲ忍ブ島ノ不便は文       
化ニ後レ勝チナルモ亦都会ノ悪潮ニ染ラズ質朴互助ノ精神ハ
自ラ相倚リ島頭ヲ定メ其許ニ協議制ヲ敷ク爰ニ享保ノ昔飢饉
ニ際シ家計ニ苦シム者アリ之ヲ救ハントシ前方ナル宇々島ニ
移住更生ノ途ヲ開カシム移リ往ク者辛抱三年自力更生ノ實ヲ
結ビ本島ニ帰還ス以降幾星霜之ヲ繰返シテ其ノ恩恵ニ浴スル
者数ヲ知ラズ此處ニ記念碑ヲ建テ後世ニ傅フ
  昭和二十五年 中秋
       梶野貫三先生題並草稿


























 名 称  愛道記念碑 
 年 代 昭和26年中秋 
 建立者  
 所在地 大島小学校前 

この碑は大島小学校の校門前に建てられている。「愛道」と彫られた文字が島民達の道を愛する気持がにじみ出た書体で又碑石の自然石がダルマ様を連想させ、なぜかなつかさと親しみ感じさせてくれる

テキスト ボックス: 遠く我等の祖先が本島に開発の
鍬を入れられてよりその業績は
日々顕著今や全く耕地も充実せり
然れども未だ道路 橋 溝は旧態
然として狭峻 農耕運搬を狙害
する事甚し 此處に於て我々は
忍びを祖先の労若又子孫の便宜
島の発展に致し之の改修に衆議
を決せり 以来島民は自奮自励協
和克く時の悪条件を克服し遂に
左記工事を完成せり
路線名    延  長
本線 一、〇六〇米 三、六米  昭和一一、一〇  昭和一四、四
南〃    三一一〃  二、七〃 仝 一四、 四  仝 一五、 八
西〃   六〇〇〃  仝    仝 一五、 九  仝 一六、 二
東〃   二七〇〃  仝    仝 一六、 四  仝 一七、一〇
中〃   一一五〃  仝    仝 二一、一二  仝 二三  二 
赤尾〃  四一六〃  仝    仝 二六、 二  仝 二六、一〇
継承される諸彦諸子と一致協力農民精神に徹して道路を愛護し以て
島の発展に邁進されんことを
昭和二十六年中秋


 名 称

頌徳記念碑鴛渕繁八翁・鴛渕英雄翁)

 年 代 昭和26年4月(1951) 
 建立者  
 所在地 浜津郷神社境内 

小値賀郷土によると繁八翁は安政二年(1855)11月12日、平戸藩鴛渕慶太郎安親の長男として生まれた。幼時から漢学を学び、珠算にもよく通じていた。士分は中小姓格で、青年時代は繁親と名乗っていた。旧柳小学校、旧斑小学校の教師として教育に勤め、又旧柳村役場に勤務して村政にも尽力した。氏は農業を営むかたわらで牛飼いに努力し、斑島及び浜津後目の海岸にも牧場を作って小値賀牛の品質改良をはかり、牛市の開設に関係うるなど小値賀畜産の発展に尽くした功績は実に大きなものがあった。また、漁業会(漁協の前進的なもの)創設や特産品布海苔の採集事業等で浜津郷の財政の向上をはかり、又初代の郡会議員となり北松浦郡政に尽力した。昭和7年(1932)6月12日、78才の天寿を終えた。

英雄氏は明治11年(1878)繁八の長男として浜津に生まれ長崎医専卒業後長崎県庁衛生課に入り高等官課長となって長崎医専を長崎医科大学に昇格させた。定年退職後は小値賀へ帰郷し笛吹六社神社の前に家を新築して医院を開業した。しかし間もなくこれをやめて昭和八年第三代小値賀町長に就任た。昭和17年(1942)享年68才で亡くなる。





























テキスト ボックス: 鴛渕繁八翁明治大正昭和、三代ニ亘り翁終始郷ニ在
シテ教育産業ノ啓発ニ盡力シ小値賀畜産界並ニ漁業會
創設に功アリ小値賀牛の品種改良特産品海羅布海苔採取
事業ヲ以て郷土財政ノ向上に寄與シ今日斯界隆盛ノ基を築イタ
テキスト ボックス: 鴛渕英雄翁は先代繁八ノ長男トシテ生マレ医界に志
シ壮年長崎県衛生課長ニ任シ本部保健衛生行政並ニ医政界ニ令名を馳セ晩年身ヲ小値賀村長要職ニ置キ夙ニ産業界開
発ノ基ハ道路交通ノ改善ニ在リトシ率先里道斑線ノ改修ヲ完成シ当町発展ニ寄與シタ

























下の写真は同じ浜津郷の後目の県道沿いに建っている大東亜戦争で亡くなった浜津郷出身の戦没者の慰霊碑です。慰霊塔の下に戦没者の名前が刻まれています。




 名 称 魚 霊 塔 
 年 代 昭和37年(1962 )
 建立者  西 義 正
 所在地 延命寺境内 

この碑については昭和三十七年八月一日の「おぢか新聞」に掲載されているので原文のまま紹介します。
『合資会社 丸二商店
魚霊塔を建立す。
吾々人間は、生物の命を貰わなければ、自からの生命を保つことは出来ない。
古来、日本には仏教的な美しい風習があって、家畜、魚介類の生命のいけによって生活の糧を得ている人達は、彼等の精霊を慰め祭るという、極めて人間的な奥床しさ持っている。真心は互いに相感応し、相互扶助の精神となって実現されていくものである。
小値賀水産会の雄、合資会社丸二商店(現社長西義正氏)は前社長西傳栄氏が個人営業として、昭和十七年に創立し粒々辛苦幾多の辛酸を経て昭和二五年に合資会社を設立、日進月歩と共に社運を伸張し、今日においては、機動船十九隻、無動力船五隻、従業員は平時において二〇〇名、定期においては三〇〇名近くを有し、年間水揚高は三億円という県水産会の王座を占めるに至っている。
現社長西義正氏は初代社長の意志を継いで、社運の隆昌と業界の発展に全力を注いでおられるが、丸二商店がかくまでに隆昌を来たすに至った原因の一つに、祖母みか刀自の信仰の感化が大いにあづかっていることを見逃すわけにはいかない。刀自は深く禅門に帰し信仰篤く、仏の道にいそしむ日常の行為を通して、初代社長二代社長がしらずしらずの内に大いなる精神的感化を受けられたのである。
刀自の感化は立派に結実して、二代社長は今回、自坊延命寺境内に魚霊塔の建立を発願し、二十万円を投じて塔を建立し、碑銘を妙心寺管長古川大航師に依頼し、黒痕鮮やかな雄大な魚霊塔が建立された。そして去る七月一九日魚霊供養と放生会(とった魚を再び海に放ってやる儀式)が従業員参列のもとに厳粛にして盛大に挙行された。』



 名 称   藤浦洸氏詩碑 
 年 代 昭和43年6月(1968) 
 建立者 小値賀町 
 所在地 西の番岳 
藤浦先生は明治31年(1898)9月平戸市生まれで高名な作詞家です。美空ひばりの「悲しい口笛」、「東京キッド」、淡谷のり子の「別れのブル−ス」等戦前戦後を通じて多数のヒット曲を世に送り出しています。
先生は平戸の猶興館高校出身で小値賀にも小田家が親戚筋になるので時々で子供の頃は遊びに来ていたようなので小値賀のことはよく知っていたのでしょう。

この詩を作詞される一年前の5月2日に町教育委員会の招きで来島し漁協2階で700人の聴衆を前に講演さでいるのでこの時期にこの詩は作詩されたのでしょう。

テキスト ボックス: 番岳に立ちて
      藤浦洸

  いにしへの 
小値賀ふな路は    
白雲の   
思いはるけき 
あこがれに
唐ジャガタラに
舵とりし
熱き心の船人の     
昔かわらぬ
潮騒や
これにたいして当時の小西町長から次のような「感謝のことば」が贈られている。
昭和34年6月小値賀新聞より

藤浦先生
あなたは海を愛しておられます 海には潮の流れがあります
その水流(みず)に 洗われて浄化作用を続ける小値賀
あなたがこの島で過ごされた幼い追憶(おもいで)はあなたの塩つぱい涙の露に宿つています けれどもあなたは、それを甘く美しい宝珠(たま)に変えてくださいました
今あなたの詩碑の前に立ち
この風土と住民を愛するお心に応える方法(ほうべん)をしりません
ただ 同じ詩(うた)を錆びない鋼(はがね)と私たちの心に刻み
永久(とわ)に変わらぬ謝意を持ち続けたいと存じます。
これがつたない私たちの精一杯の感謝の表現なのです。
どうぞ快(こころよ)くお受け取りください。 


 名 称   岩坪清士翁顕彰碑 
 年 代 昭和45年10月(1970) 
 建立者 柳郷&有志 
 所在地  柳志々岐神社境内
翁は柳郷出身で柳村役場書記を振出に、68才で小値賀町長を退任まで40有余年間小値賀町の発展の為にひたすら生涯を捧げられた。
碑の裏面には当時の小西町長の碑文が刻まれて翁の足跡を如実にうかがい知ることができる。



テキスト ボックス: 翁ハ明治二十五年柳郷ニ生ヲ享ケ質性温厚ニシテ計画緻密、志ヲ常ニ農業改良ニオキ刻苦励精倦ムコトヲ知ラズ、二十三才ニシテ柳村ノ書記トナリ六十八才小値賀町長退任マデ実ニ四十有余年町政推進ノ重任ニ当リ大正昭和、町政の柱タリ。ソノ間昭和二十一年ヨリ七年間第二次大戦後ノ資格審査追放ウケ、閑暇ノオリトイエドモ農業委員会長及ビ農業協同組合長、漁業協同組合理事トシテ常ニ町経済発展ノタメ意ヲ用イ、又柳港修築ノ中心タリ。町長在任中県町道農道ノ新設改良ト城ノ越溜池、新田排水施設、農業構造改善ニ特ニ努力シ今ナオ、町民ノ享ケル利益は量リ知ラズ、町長退任後ハ町監査委員トシテ後輩ヲ指導、マタ岳田溜池改修及ビ開田ヲ改修シ郷民ニ寄与スルトコロ少ナカラズ。翁、今ナオ矍鑠齢マサニ八十才寿ヲ迎エントス時ニ柳郷ヲ中心トシ各界有志相寄リ翁ノ徳ヲ称エ茲ニ顕彰碑建立ヲ計画シ永ク功績ヲ讃エテ後世ニ伝エントス茲ニ請ワレ生涯ヲ町政ニ投ゼシ翁ノ閲歴の梗概ヲ叙シテ之ニ応フ。

昭和四十五年十月
        小西一夫、敬白











































 名 称  桜記念樹 
 年 代 昭和57年(1982) 
 建立者 戦友会 
 所在地 番岳 

テキスト ボックス: 風 雪
 祖国を愛し
  青春を散らして逝った
  今はなき戦友に捧ぐ
 此処の桜は終戦の直後
 龍友会長平田伝一氏の
 発起により戦友達の手
によって植えられたもので
ある
 昭和五十七年
        戦友会

 名 称  蚕(かい) (こん) () 
 年 代 昭和59年(1984) 
 建立者  
 所在地 笛吹在 

この碑の開眼供養供養式典当日の様子を作家の高田宏(たかだひろし)先生が月刊誌「潮」1984年8月号に掲載している。
 『小値賀島
  ほんとうの空
  ほんとうの海      高田宏
中略・・・小値賀に泊まった翌日、蚕魂碑の開眼供養祈願と朝日農業賞・県知事賞受賞記念祝賀会があった。
小値賀島で養蚕をはじめたのは最近のことである。
約三十戸が桑園をひらいたのが昭和四十六年、それから十三年のうちに戸数も七十戸を超え、繭の生産量も反あたり九十八キログラムと全国のトップレベルに達し、それ以上に品質の良さで群をぬいている。桑園の共同開墾や稚蚕の共同飼育、そして繭の共同出荷と、共同の作業がみんなの心をつなぎ、丹精こめた仕事が良質の繭を生みだしているのである。と同時に、そこにはこの島の人びとの心に昔から流れている、生きもののいのちへの思いやりや共感があるのだろう。
牛たちと心をつないできた人びとがその心をいま蚕たちにもつないでいる。甘藷と麦からの転作にはじまった養蚕がたった十三年で長崎県下一となって県知事賞を受け、さらに朝日農業賞を受けるまでになった裏には、この島の歳月が培ってきた人びとの心がいきづいているだろう。
小値賀養蚕部会の青年部婦人部のメンバ−が、その心を土台に討議をくりかえして、いまの成果をつくりだしてきたのだ。
朝からの蚕魂碑開眼供養は厳粛なものであった。町はずれに建てられた新しい石碑の前に、養蚕農家の人びとが集まって老僧の長い読経がつづいた。
・・ハンニャハラミ−ツ ギャ−テイ ギャ−テイ・・・・
二月の冷たい風が吹きすぎていたけれども、だれもが真剣な顔つきで、えんえんとつづく読経のあいだに立ちつくし、親しいものの葬儀同様に線香がつづいた。
蚕魂碑と道をへだてて墓所があった。どの墓にも新しい花が供えてある。日々仕事に出ると前、朝のうちに墓に詣でるのだそうだ。島の人たちは、死者への敬慕と親しみを持って生きている。
花の絶えることのない墓所と蚕の魂をとむらう儀式とが、道をへだてて一つの心をあらわしていた。それは、牛を連れて安らぐおばさんたちの心とも、まっすぐにつながっている。
 受賞記念の「養蚕記念碑」なんかではなく「蚕魂碑」であることが、私には納得できた。
虫の魂への祈りがそこにあった。・・・』
テキスト ボックス: 昭和四十五年切リ干シ甘藷対策
トシテ養蚕を導入シ以来拾余年離島
農業ノ悪条件ヲ克服シ県知事賞朝日
農業賞ヲ受賞スルニ至ル之ヲ記念シ
テ蚕霊ヲ供養シ振興ヲ図ルト共ニ関
係各位ノ御支援ヲモトニ蚕魂碑ヲ建
立スル
    昭和五十九年二月吉日
        佐世保市農協小値賀支所養蚕部会 























 名 称 斑大橋架橋記念碑 
 年 代 昭和63年(1988)
 建立者  小値賀町
 所在地 斑郷 

昭和53年5月の小値賀新聞によると

『ここ斑の渡しに、とてつもない希望が実現した。斑島民百年の願いであったろう「夢のかけ橋が浜津と斑に虹の橋のようにかかるのである。橋格二等橋、橋長290メ−トル今年の秋に完成の予定という。
海の上に道が出来る。その道はどこまでも続く道となる。わたしたち、離島に住む人々は海にも道がほしいと思う。航路は海の道路である。広くそして歩きやすい道路へと希望を展げたい。』
                                                                                      


                                  
   橋  長     290m
   橋  員       6m
   着  工 昭和48年10月
   竣  工 昭和53年10月
  工   1,021,000千
斑大橋の架橋は永年斑島住民の夢であった 昭和三十四年小値
賀町長に就任した小西一夫氏は架橋実現に懸命の努力を
傾けられ長崎県知事久保勘一氏及び二区選出国会議員のご
尽力を得て昭和四十八年十月事業着工に漕ぎつけ 爾来五
年間の歳月をかけ五十三年十月新田正義町長代に完成し 斑
大橋完成十周年にあたり 架橋に尽力された方々に感謝し
喜びを後世に伝えたいとの斑住民の意もくみ 茲に架橋
記念碑を建立する
    昭和六十三年十二月吉日
           小値賀町長  津 田 育 佑