名 称 (うし) の (とう) (町文化財) 
 年 代  建武元年(1334年)
 建立者  源定公(平戸松浦家15代当主(松浦定公)
 所在地  中村郷船瀬浜

中村郷船瀬の浜の入り江の突堤に存立する「牛の塔」は小値賀唯一の古跡です。
島民は石囲の祠を「牛の塔」と呼んでいるが、本来の牛の塔はこの祠の中に祀られている、地上一、六メ―トル、幅最長三十センチ、厚さ二十センチの細長い表面に文字が刻まれている自然石がそれである。

小値賀島は建武年間前までは二島に分かれていたが建武元年平戸松浦家15代肥前守源定が両海峡を埋め立て新田工事を行った。その時多数の使役牛が犠牲になったのでこれ等の牛を供養する為定公は供養塔を建立し塔の地下には小石一つ一つに経文を書いた一字一石経を六万九千三百八十四個埋納したので
この石碑の正式名称は「大乗妙典碑」だそうである

この石碑は中央の上に梵字の釈迦が刻まれその下に奉納妙法蓮華経、右に大願主地頭肥前守源、左に建武元年(1334年)甲戌九月□日の刻印が微かに読み取ることが出来る。
九月だけで日日の刻印は長い年月で剥離されたのか元々刻まなかったのか解読できないが、町民俗資料館の塚原学芸員の話では「二三日」と即ち彼岸の中日と推定される他に例もあると云っている。

毎年正月には中村郷で注連縄を飾られ祀られている。



テキスト ボックス:                 大願主地頭肥前守源定

   奉 納 妙 法 蓮 華 経

                建武元年甲戌九月□日
大正元年に完成した祠




 名  称  鸞 州 源 厚 公 玉 吟(らんしゅうみなもとあつしこうぎょくぎん)   
 年  代  大正元年(1912年)
 建立者 松浦厚公 
 所在地  中村船瀬浜
永年風雨にさらされいた碑は痛みが激しく大正元年「牛の塔」保存の為平戸松浦38代松浦厚公と町民有志の寄付により外側の囲い工事が完成した。その落成記念に松浦厚公(鸞洲)が揮毫した漢詩である。当時厚公は貴族議員で、茶道石州流鎮信派の家元でもあり、又高名な漢詩人、書道家でもあったのでこの「牛の塔」工事の記念として自ら詠んだ漢詩を刻んだ。
この漢詩を大正元年十二月十日に「牛の塔」落慶法要を取仕切った浄善寺第三十世藤藤盛傳住職の解釈によると
『空を眺めれば雁が斜めに船瀬の上あたりを横切西の方帰っている
牛の塔は秋天を仰いで立っている
祖先定公が残した業績は動物までが知っている
建武元年に出来たこの牛の塔を後世まで長く伝えたい
と解している.
     
              テキスト ボックス:  斜雁数行船瀬邊断碑一片   
倚秋天祖君遺徳迨禽獣牛   
塔長傳建武年 
     牛塔在船瀬濱
  肥州公築新田用牛力成功牛多斃
建大乗妙典碑即建武元年也
       明治丙午九月  鸞洲源厚稿


下側の碑は牛の塔牛の塔建設に当たり厚公からのの下賜金150円の碑である




 名  称  □ □ (くに) (つかさ) (すぐる) (こう) () (びょう)   
年  代   応永年間1394~1428年
建立者   
 所在地  前方長寿寺境内 
この石碑は長寿寺本堂入口の直ぐ左手にあり、平戸松浦の祖16代国司興栄公の墓所であると寺伝ではなっている。
長寿寺の創建は墓碑名の本人興栄公(松浦勝)により応永年間(1394年~)に建立されたとされている。
『松浦家世伝、国司公伝』によると興栄公(勝)の墓所は平戸「瑞雲寺」墓地にあり小値賀「長寿寺」の墓は遥拝塔であると書かれている。
          テキスト ボックス: □ □ 国 司 勝 公 之 廟 




















 
下の写真は長寿寺本堂本尊脇に祀られている平戸松浦家お殿様の位牌(16代勝公より36代曜まで)    
奥の白い衣の地蔵菩薩は西林寺の廃寺によりこのお寺で祀られている

長寿寺領経崎山の奥深く生茂った雑木に囲まれた中に数十基の板碑群が存在している。
町指定文化財で「経崎山中世墳墓群」です。牛の塔建立者平戸松浦15代定公とその家臣達の墓であろうと
推測されている。定公は勝公の兄である。



長寿寺境内裏手松林の中に存在する古碑群でこれも町指定文化財で「薩摩堂古碑群」と呼ばれ、
この墓主は勝公の子供と云われている。


 名  称  (ろく) () (ぞう)    
年  代  天文~慶長年間(1532~1615年)
建立者   
所在地   柳郷キョンタケの墓地
柳の中江方、廃寺長楽寺付近のキョンタケ墓地の回り所(葬式の時棺を担いで回る場所)の棺置台の前に高さ約1.35メ-トルの砂岩製の六地蔵が立っている。塔の上部に六地蔵が彫られ其の下部に「三界万霊」が刻まれていたのであろうが風化が激しく判読しがたい。(左写真)


前方郷後目にある西林寺跡墓地に立っている六地蔵で元和五年(1619年)以降に建立されたのであろうがこれも砂岩製の為風化が激しく上部の地蔵自体も判別し難いがおそらく六地蔵であったであろうと推定される。


名  称    南(みなみ) () () () () (ぶつ) ()(町文化財)
 年  代  元亀二年(1571年
 建立者  
 所在地  柳善福寺境内
この石碑は柳善福寺山門右手に建つている。

郷土誌によると
この寺の開山は寺伝によると慶長二年(1597)であるが、平戸藩寺院改帳及び諸宗本末帳には元亀二年とある。創建と同時期に建てられたと考えられる。
そして元亀二年という古い年号をもつ念仏塔は県下でも唯一のもので文化財としての価値も高いと評価されている。 


右写真境内の奥の方に祀られている

                  テキスト ボックス:     
奉唱百万偏村衆同音
   南 無 阿 弥 陀 佛
         元亀二暦二月吉辰



名  称   西林寺(さいりんじ)板碑群(いたびぐん)  
 年  代  元和5年(1619年)
 建立者  
 所在地 前方後目 
県道笛吹から前方相津方向を「元ゆり商店」の所を左折れして昼間でも暗い鬱蒼とした細い山道を後目部落に抜ける途中の土手上ある。
これが通称「シャラジ」の墓地で三体の板碑が並んでありその周辺にも落葉に埋れて壊れた板碑や住職の墓、宝篋印塔、六地臓等が散在していていかにもこの墓の古さを醸し出している
この板碑は左の方が一番古く、右に行くに従って時代が下がってくるようである。室町時代以後順次江戸時代まで建てられたものと思われる。

郷土誌によると
この墓碑には「巌誉紹嘉禅定門」と刻印があるが生前は近藤播磨守秀定と名乗り小値賀の古い豪族で松浦家に滅ぼされた近藤播磨守重可の末裔と思われる人物である。その後代々平戸松浦家に仕え新田城を預かっていたが晩年菩提寺として西林寺を建立して没後ここに葬られたとされている。
秀定没後無住となり長寿寺の管理下に入ったがその後天保三年長寿寺海州和尚が再健し明治九年廃寺になるまで残っていた。長寿寺の記録によると秀定の法名「巌誉紹嘉禅定門」は当時小値賀には平僧だけでしか居なかったので身分のある方の葬式なので色衣着用の僧でないと相すまぬので、隣の宇久島から浄土寺を招き葬送した。
それで西林寺は禅宗であるので「紹嘉禅定門」と禅宗の法名をつけた上に「巌誉」と浄土宗の法名が付け加えられたと説明している。
 
前方郷土誌によると『しゃらじに最連寺あり伴天連なりと云う今訛りて地名「シャラジ」と云う』とある。西林寺なのか、最連寺なのか、禅寺なのか教会なのか定かでない。

テキスト ボックス:            
今時元和天  
 
         巖 譽 紹 嘉 禅 定 門
    
                       四月六日


          為 心雄 宗 禅 禅 定 門
――――――――――――――――――――――――――

□   □ 
□□     為 月 花 蛍 禅 定 門             
                                 六月七日

西林寺の本尊「地蔵菩薩」現在長寿寺本堂」



名  称    近藤(こんどう)播磨(はりまの)(かみ)(ひで)(さだ)の位牌  
 年  代 元和5年 (1619年)
 建立者  
 所在地  前方相津近藤宅
の位牌は前途の西林寺板碑群に関連しますが明治9年に近藤家の菩提寺であった西林寺が廃寺となったので子孫に遺す為にこの位牌を勧請した記されている。
近藤播磨守秀定一族は長い間が新田城主であったが仁平1年(1151)松浦一族の松浦連(小値賀十郎連)とは本城岳の戦いにおいて小値賀豪族連合軍敗れ小値賀の豪族は滅んだ。
その後近藤家は代々平戸松浦の家臣となった。


松浦家の史書「三光譜録」の中に
『鎮信公、朝鮮へ出陣の折七郎大権現へ参拝された。その時、御太刀を小姓近藤甚八に持たせ、御神拝を終えた。
近藤甚八は小値賀近藤播磨守秀定が末裔なり。帰陣の際も太刀を持たせた。
御代々、七郎宮に御参詣の際は甚八をして太刀の役目を務めさせた。甚八は代々同名なり。曲村に居す。』と記されている。





名  称   徳川(とくがわ)院長(いんちょう)七郎(しちろう)(はか)  
 年  代 正保元年(1644年) 
 建立者  
 所在地 前方郷赤坂浄善寺墓地内 

浄善寺過去帳や大正年間に編纂された前方郷土誌によると

長七郎は徳川三代将軍の実弟駿河大納言忠長卿の長子であるが、正保元年(1644)の冬大風雨の為小値賀の野出崎に北前船が漂着して危うき体を丁度二十二代浄善寺の伜岩三郎と行当たり手厚い看護を受けたが、その甲斐なく他界し前方郷赤坂にある浄善寺の墓に葬られた。

生前、老体の疲れで回復が見込みないと悟った長七郎は「自分は関東の侍で身を隠し入道して徳盛言う」自ら筆を取り「徳川院長七郎来島浄土居士」と書いて十一月十五日に亡くなりこれを墓石に印した。之故関東墓と申伝置也。代々大切に奉ること。由緒ある人ゆえ当院開山教伝の墓に納棺したがこの墓は後年何人たりとも掘り返すことがないようにとある。遺品として「備前長船清光作鎧通一刀、赤胴コウガイ」があり代々護持の者也

古刹浄善寺は前方牛渡から昭和4年に笛吹の現在の地に移転してそれに伴い前方赤坂墓地に眠る代々の住職の墓も移転したので現在は墓標もないがこの墓石だけが遺言通り移転もせずに今もこの場所に眠っている。時折墓参の人が花や水を手向けている。

長七郎の墓は和歌山や長崎にもあるのでこの墓が本物のであるかどうかは定かでないが直木賞受賞作家の村上元三の「松平長七郎道中記」の中では長崎まで来ているのでその帰途の途中時化に合い難破して小値賀に流れ着いたと考えられないこともない
現存する墓は下部が折れて途中から立っているが元の墓石はこれより長く墓碑銘も下部分には「島浄土居士」と刻まれていたのであろう
                                   
                            テキスト ボックス:  
徳 川 院 長 七 郎 来
この長七郎の菩提寺「浄善寺」は漂着したとされる正保元年頃は前方の牛渡部落にあった。(左写真)漂着した海岸「野出崎」も同じ牛渡部落にあるので
岩三郎が近所の海岸散歩途中に行当って助けたのであろう。(右長七郎遺品)
                           

















浄善寺は昭和4年に現在の笛吹に移転している




名  称   即(そく)非書(ひしょ) 長楽寺(ちょうらくじ)(がく)(町有形文化財指定) 
 年  代 寛文4年(1664年)
 建立者 即非 俗姓は林 法諱は如一 
 所在地 柳郷善福寺本堂 
小値賀の西沖の島々の中に全島削り立っような嶮しい無人島で雑木や蔓が繁茂した美良島(一番下)がある。
その山の頂上付近に「寺屋敷」と呼ばれる場所があり豊臣秀吉が朝鮮征伐の時、戦勝を祈願するために祈祷所を建立して胡麻を焚いたとされる所でその寺は後に「長楽寺」と称して本島柳郷の中江方に移されたが明治維新後廃寺となった。
「善福寺」に保管されている長楽寺の額(左下写真)は有名な即非の書である。この額に関して小値賀史談会機関誌「龍燈2号昭和40年9月」に当時の善福寺の住職「森岡諦善和尚」が詳しく説明しています。
『中略・文禄の役(豊臣秀吉の朝鮮征伐1592年)では日本軍は京城(ソウル)を陥し、加藤清正は会寧(フェリョン)に小西行長は平壌(ピョンヤン)にまで進軍したが糧食の不足と明の援軍到着のため休戦し、慶長の役(1597年)では明・鮮の連合軍に苦戦し九八年八月秀吉の死によって休戦撤兵している。秀吉は佐賀の名護屋を前進基地としここから兵を送っているが、その間において美呂島に長楽寺を建立し、戦勝を祈願せしめたと伝えられている。(・・中略)
秀吉の死によって長楽寺はその使命をはなれ辺境の地より小値賀島の柳村字中江に移転された。其の後、藩政改革によって五十石を減禄されて経営困難となり前方村鳥山の万福寺に合併させられたが万福寺も亦、明治四年に廃寺された。(・・中略)

即非は(1616年~1671年)は黄檗宗の高僧で有って諱は如一、支那福州の人である。
隠元に請われて崇禎(中国歴)十四年(1641年)に来日、明暦三年(1657年)九月九州に渡り長崎の崇福寺に入り、寛文十一年(1671年)壽五十六才で同寺に入寂している。

長楽寺額甲辰(1664年)は夏に書かれたもので、その原本は平戸の談議所(最教寺)に残っている。(・・・中略)額の裏面には、漢文で由来らしきものが書いてあるが「長楽寺本尊十一面観世音菩薩は本島無比の雄尊なり」と記されてありそれ以外の文字は消失していて判読できない。』
と述べられている.

長楽寺の遺物にはこの外に、本尊十一面観音像・不動明王・多聞天王・鰐口は長寿寺で祀り。懸け仏(県文化財指定)は平戸最教寺の寺宝館に展示されている。
写真右下は、長楽寺本尊で現在長寿寺境内観音堂に祀られている。


長楽寺本尊十一面観世音菩薩(現在長寿寺境内観音堂)


太閤秀吉が戦勝祈願に建立した祈祷所があった美良島


 名 称 漂着(ひょうちゃく)大般若経(だいはんにゃきょう)  
 年 代  不詳
 建立者  
 所在地  柳郷善福寺
この大般若経(左下)は長楽寺が所有していた。長楽寺は真言宗で禄高百石でしたが藩政改革に際して整理の結果五十石に減じられたため維持困難となり住職は下五島大寶に逃走したが、後に人を遣わして大般若経十二函の中6函を奪取した。長楽寺は後に前方後目鳥居山の満福寺(左下)に合併されたがこの寺もやがて廃寺となった。

これに関しても善福寺の当時の住職「森岡諦善」和尚が「龍燈 昭和40年6月発刊1号」に詳しく述べている。
『現在、善福寺に現存する大般若経はその当時(1500年前奈良.平安朝の頃)において、唐より我が国に渡航する船が斑沖にて遭難しお経崎に漂着したものであると言われているが、六百巻のうちそれらしきものが一巻(589巻)あり、唐朝大明国臣書と奥書してある。
あとは応永年間(1394年~1428年)と明和年間(1764年~1770年)の2回に渉って源ノ宥が発願主となり小値賀笛吹村地蔵堂(現梶野氏宅)において修験者の手によって補筆・書写されたものである。
当時、斑島及び柳部落においてはこの経文が非常に尊ばれ、毎年正月には村人が各戸に持ち廻って天下和順、日月晴明、風雨以時、災厲不起、国富民安を祈願したものである。
この風習は柳部落においては近年まで続いた・・・・』

般若経が漂着した所と云われている斑島お経崎です。島民がここで濡れたお経を広げて干したら岩にお経が刻まれたと云う伝説の場所でもあります

万福寺



 名 称 (ひよう)(まつ)(きょう)()
 年 代 天明4年(1784年) 
 建立者  
 所在地 柳郷善福寺境内 
この「漂末経碑」は前途の「漂着大般若経」を後世い伝えるために天明4年に建立した記念碑で高さ1メ-トル20センチ幅58センチ石に彫られて現在は善福寺境内(右下)にある。
郷土史家の故「近藤政英氏」柳、近藤親家当主(現古民家親家)が発見と解読をしそれを善福寺住職「森岡諦善和尚」が現代文訳して史談会機関誌「龍燈」に掲載しているので紹介します。


『この世の中には奇怪な事は存在しないと思うが、たまたまそれが有るとすれば世間の人々は不可思議だと云っている。小値賀の西に斑島がある。そこは沢山の石がごろごろしており、西の方は不毛の地で南ははるか五島に接している。西は浩蕩たる大海で天気のよい時目を凝らせば遠く韓国を望むことも出来る日本の地の果てである。
この斑島にはお経石と云うのが有って石面は平らでお経の跡が明らかに残され、その数を数えることが出来る。村人に尋ねたらこう答えて呉れた。昔魔化般若経若干巻がこの海岸の崖下に流れて着き村人が函を開いて濡れた経巻を岩の上に乾かした所であると。そこで自分は思った。これは明らかに佛徳の然らしむるところであり実に千歳にも残る遺跡であろう。
奇と云うべきか怪と云うべきか誠に不可思議である。只惜しいことに記録がなくて審らかに出来ない点が残念である。自分は或る年或る月その経巻を見たが明らかに明人の筆になるものであった。現在は柳中江の長楽寺に宝蔵されているが、永い間には朽ち果て忘れてしまうであろうことを人々と倶に歎き暇を見て筆を執り由緒を略記した次第である。銘して云う。
一六項目からなる大般若経音巻は釈尊の予言通り東遷して日本に伝えられた。たまたま経巻は波に洗われて九尋の渕に没しようとしたが不可思議の佛徳によって事なきを得ることが出来た。巌上に経も曝すこと幾歳であったかは判らないが今も岩に刻みつけられて確然として残されている。既にお判りの如くこれは長楽寺遺物現在善福寺所蔵の大般若経三百巻の内の一巻で唐朝大明国臣書とあるものを指したものであることは間違いない。碑文の作者の名前が明らかでないのが残念であるが、文体と云い、銘の十六会座音と詠んでいる語調から察して日本の僧侶であろう。この碑建立の三年後天明七年(一七八七)に新しく経函を造り換えている。近来この一巻は遣唐船からの漂来の如く伝えられているが碑文にはこのことは触れていない。又該経は前途の一巻のみ現存しているが碑文によれば函を開いて経を曝すとあり、又経若干ともあるので一巻丈けではなかった筈である。言伝えによれば住職六函を持ち去ったとも云い、又該経は寺々の盛衰によって、長楽寺、善福寺、満福寺の間を転々として持ち廻りされているので管理不行であったことも考えられる。』



善福寺