ようこそ「みなとや&白帆館」に御来館いただきありがとうございます。



世界遺産「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」に小値賀町の旧野首教会もノミネ−トされているので最近小値賀も観光客が増へ、若者や、親子連れ、、外人夫婦連れの旅行者達が笛吹本通りを行き交いながら休憩所を探す光景を良く見かけようになったので、ならば「みなとや」を休憩所に開放して畳の上で一憩いして頂きながら父と私で蒐集した小値賀の古民具や壺等を見てもらおうと思い立ったしだいです。


みなとや館は長崎県小値賀町笛吹本通り値賀郵便局直ぐ下にあります。建坪は1階87.96u、2階87.42で総床面積175.38u(53坪)です。

昭和52年に増築して現在の建坪で登記されていますが増築前の正確な築年は分りませんが明治26年に所有権登記がなされています。
そもそも代々大工の棟梁の家なので家の各所で古材を上手く再利用してます。
みなとやの名の由来は先々代の棟梁が下宿屋も兼ねていたのでその屋号が「みなとや」だったのでそのまま使用してます。
この家の家主が町外転居に伴い20年程前私が買い所有者となりました。

この館内は古民具館と白帆記念館に分かれています。

古民具館は古民具・昭和・戦争従軍遺品・小値賀の写真、ビデオコ−ナ−の等各展示コ−ナ−を設けて鎌倉時代から今日までの島内で使用された壺や古民具や先祖の遺品等を展示しております。





































































白帆記念館は新潟生まれで小値賀で亡くなった漂泊の俳人池原白帆翁の遺文庫になっています。
翁は明治新潟県生まれて俳句の先生をしていた祖父や学校の先生をしていた父親から幼少のころから俳句の手ほどきを受け中学時代は五年間級長をしながら新聞や雑誌に俳句を投稿していたようです。

逓信省(現郵政省)の灯台守養成学校を卒業後千葉県の野島灯台を皮切りに日本や当時日本だった樺太、中国の旅順の各灯台を三.・.四年毎に転勤しながら行く先々で作句や句会を盛んにおこなっています。
昭和13年に五島小値賀島の白瀬灯台に転勤した時も地元の句友や弟子達と句会を何度も開いて会のリ−ダ−的役割果たしている。
昭和16年に中国旅順の「老鉄山灯台」に転勤になり小値賀に家族を残して赴任しました。そこでも後のホトトギスの編集長となった湯浅桃邑、をはじめ金子麒麟、青山木立等高名な俳人たちと句会を開き終戦後は中国に抑留されて昭和24年に家族の待つ小値賀に帰島し、亡くなるまで小値賀で町内会長をはじめいろんな役職を歴任しながら作句や句会、後輩の指導に余生を送り送りました

翁の借家は没後誰も住む人もなく約30年間放置され屋根も落ち廃墟となり町で近々取り壊す話をを聞いたので翁の遺留品がないか現場を尋ねた。
床や畳、天井が落ちて散乱して足の踏み場もないの中を埃りを被ながら奥に進むと布団棚がありその中に埃を被ったダンボ−ル箱やミカン箱が無造作に山積みされていた。中身は原稿用紙を纏めた和綴じの本や月刊本「俳句」や俳句、短歌、文学集等である。

池原翁のことは小値賀新聞の昭和28年の創刊号から亡くなる年まで紙面に俳句欄があり「白凪会」の句会メンバ−が投稿しておりその中に翁の俳句も良く見かけるので名前だけは知っていた。
私は町の文化財調査委員もしているので5年程前翁の作句の原稿等ないか小値賀に住んで居る親族尋ねたら翁の死亡後家財は全部廃棄したので原稿も多分残っていないとの返事だったので残念思っていたが今回の大発見に胸が躍り大喜びした。
軽トラに一台分の荷物を倉庫に運び込み五日間ぐらいかけて一冊一冊丁寧に埃を払った。
親族に遺品があったが旨を話すと当方で自由に処分して良いとの事で中身を数か月掛けて整理すると翁の明治末から昭和50年代ごろまでの日記、句集、約130冊他に創作本、スクラプブック等がありました。遺稿の中には「敗戦日記」に中国満州で終戦を迎えて帰国までの中国での生活が事細かに書かれていて当時の中国の様子を垣間見ることが出来ます。又引揚船での船中での句会や出来事なども記していたり帰国後東京のマッカサ−司令部に召喚された事等々貴重な体験談が書かれており大変興味深く戦後の小値賀知る上で歴史的に価値ある遺稿ばかりです。
これ等を独り占めにするにはもったいないような気がして多くの人読んでいただこうとも思って白帆記念館を創りました。創設に当たり池原翁のお孫さんにお願いして翁の新潟の戸籍や写真等を用意して頂きました。